距離感 |
仕事納めの日に仕事が終わらず、いくらか翌日に持ち越してしまった。 それを日暮れ前に片付け、いよいよ年越しの準備をしに家に帰ろうとした時だった。 イルカしかいなかった教員室に、シズネが慌てた様子で入ってきた。 「イルカ先生! 丁度よかった! 年末年始に時間が取れそうな人を探していたんです!」 こちらの返事を聞く前から、シズネの目はあからさまに輝いている。 「俺だって年末年始くらい予定が入っていますよ」 お節を毎年何品か作っているのだ。 元日には初詣にも行くし、仕事始めまでゆっくり過ごすのが定番になっている。 「3日ほど、カカシさんの自宅療養を手助けしてあげてくれませんか」 とく、と心拍が小さく跳ねた。 密かに思いを寄せている人の名前が出たから。 「カカシさん、どうかされたんですか」 「だいぶチャクラを消耗しているようなんです。元旦から国賓への挨拶回りがあるので、ある程度は回復してもらわないと困るんですが、時期的に人手が…」 でも放っておくわけにもいかなくて…、と困ったようにシズネが続けた。 ひと月に数回顔を合わせられるかどうか、という相手と、3日も続けて会えるのか。 私生活の一部に関わる事ができるのか。 それを断る理由なんてない。 むしろ、引き受ける事を正当化する理由ばかりを考えていた。 身の回りの世話をする者を派遣させる、という旨はすでにカカシに伝えてあるらしい。 まさかイルカのような野暮ったい男が来るとは思ってもいないだろうけれど。 少なくても女性で、願わくば美人で、若くて、朗らかな人、を期待しているはずだ。 カカシも運が悪い。 イルカで賄えそうにないようなら、他に請け負ってくれる人を探そう。 そんな事を考えながら買い物を済ませ、カカシの家へ向かった。 ドアの前に着くと、小さく深呼吸をして呼び鈴を押した。 だが、反応がない。 ゆっくりと10秒数えて待ち、もう一度押そうとしたら、中から物音がした。 「カカシさん、いらっしゃいますか」 ノックをして、試しにドアの把手を引いてみると、鍵がかかっていなかった。 少し開け、室内に呼びかける。 「イルカです。シズネさんに頼まれて伺いました。失礼します」 微かに音のする奥の部屋へ行くと、カカシがベッドからずり落ちたような体勢で床に倒れていた。 慌てて駆け寄る。 「大丈夫ですかっ」 「す…ぃま…せ…」 カカシは口布をしていなかった。 こんな時だというのに、あまりにも整った素顔に、どきっとした。 すぐに頭を振って、雑念を追い払う。 カカシをベッドに引き上げて布団をかけた。 それなのになぜか、カカシは無理やり起き上がろうとする。 「横になっていてください」 「だって…イルカ先生が…うちに…いるとか…ありえ…ない…」 ありえない。 その言葉に、ずきっ、と胸が軋んだ。 そうだよな、せめて女の人が来ると思うのが普通だよな。 「…すみません。少しのあいだだけですから辛抱してください。台所、借りますね」 逃げるようにカカシから離れた。 最低限の食器や鍋、調味料、タオル、洗剤など、ひと通り調達してきたものの封を手早く開けていく。 それが済むと、食事の支度に取りかかった。 簡単なものだけど、ひと手間ひと手間、丁寧に、丹精に、進めていく。 イルカが世話をしたせいでカカシの回復が遅れてしまわないように。 用意したのは、出汁で炊いただけの、具は卵しか入っていない質素なお粥だ。 万が一でも足りない事のないように、多めに作った。 取り皿と蓮華と共に小鍋を盆に乗せ、カカシのいる部屋へと運んでいく。 「失礼します。少しだけでも召し上がりませんか」 声をかけると、またカカシは懸命に起き上がろうとした。 今度は急いでヘッドボードと背中のあいだに丸めた毛布を挟み込む。 食欲がゼロではなさそうな様子に、少しほっとした。 「まだ熱いので」 一番消化しやすい半熟状態に仕上がった卵と粥を取り皿に移し、ひと口分を蓮華に掬った。 ふう、ふう、と息をかけて軽く冷まし、カカシの口元へ近づけていく。 むさ苦しい男から食べさせられる事に抵抗があるのか、口を開ける事を躊躇っているようだった。 やっぱり見た目って大事だよな。 諦めて手を引こうとしたら、カカシが慌てたように蓮華にかぶりついた。 ゆっくりと咀嚼をして、みるみるうちに頬に赤みが差していく。 表情まで明るくなっていくように見えて、こちらまで嬉しくなってくる。 「もうひと口、いかがですか」 ふた口目を取って再びふうふうと冷まして運ぶと、今度はすぐに口を開けてくれた。 だがカカシは、それを収める事なく口を閉じてしまった。 「…じ、ぶんで」 カカシが弱々しい手つきで、イルカから蓮華と取り皿を奪った。 食器を持つ手が震えていて、かちゃかちゃと陶器同士のこすれる音がする。 見かねて尋ねた。 「お手伝い、しなくて大丈夫ですか」 「いい…、です。自分で…」 その時、あっ、と気がついた。 イルカから食べさせられるのが嫌なんだ、と。 水に墨汁が滲むように、じわーっと胸に暗い影が広がっていく。 それからは、カカシがどんなにつらそうに手を動かしていても、イルカから食事の介助を申し出る事はなかった。 ただ、取り皿が空になるたびに、おかわりを入れるかだけを尋ねた。 次第に湯気は消え、お粥は冷えて固まっていく。 それでも長い時間をかけ、とうとうカカシは1滴も零さずに食事を終えた。 小鍋の中身はすべてなくなっていた。 たったそれだけの事が、やたらと嬉しくて、不覚にも涙が出そうになった。 変な顔を見られないように、慌しく鍋や食器を集めて台所へ移す。 洗い物をして、最後に流しを整えた。 次は清拭だ。 入浴よりは体力を消耗しないだろう。 濡れタオルを何枚か電子レンジにかける。 熱めの温タオルを持って、もう一度カカシの元へ向かった。 カカシはまだ体を起こしていて、空中をぼんやりと眺めていた。 「体、拭きませんか。少しはさっぱりしますよ」 手伝わせてもらえるとは思っていない。 それでも一応そばにいれば、何かの役には立てるかもしれない。 「着替え、どこですか?」 カカシがわずかに腕を上げ、タンスを指した。 消化に体力を使っているからなのか、最初よりも怠そうに見えた。 「ぃ…ち、ば…ぅ、え…」 タンスの一番上から忍服と下着をひと揃え出して、ベッドに乗せる。 男同士なら恥ずかしがる必要はないだろう。 「…ま、せ…、ぁ…が…」 「え? なんですか?」 聞き取れなくて聞き返したけれど、返事はなかった。 具合が悪いからなのか、面倒だったからなのか。 もし後者だったら、と一度思ってしまったら、重ねて聞き返す勇気は出なかった。 黙っているうちに、カカシがもぞもぞと上を脱ぎ始めた。 動きが弱々しくて、ぎこちなくて、片袖を抜くのにも苦労している。 助けの手が出そうになるのを必死に抑えた。 ようやく脱いだ服を受け取り、代わりに温タオルを渡す。 ゆっくりとはいえ前面はつつがなく進んだが、やはり背面は不自由している様子だった。 はらはらしながら見守っていると、カカシの手元から、ぽろ、とタオルが落ちた。 それを拾おうとした途端、ぱし、と軽い音がした。 力ない手に、それでもはっきりと拒まれたのだ。 体に触れたわけでもないのに。 また胸の奥が、つきん、と引き攣った。 「…すみません」 声を絞り出した。 イルカがいる事で、おそらくカカシに気を張らせてしまっている。 これでは療養にも専念できないだろう。 後任を探そう。 心からそう思って、服の洗濯、乾燥、片付けまでを全うすると、シズネの元へと駆け戻った。 |