イルカと交代で派遣されたのは、カカシと同世代の女性中忍だった。 引き継ぎの際に面会したけれど、純粋に好感の持てる人だった。 あとから聞くと、イルカと違ってカカシに何かを拒まれたり、嫌がられたりするような事はなかったそうだ。 決まっていた年始の仕事も無事にこなしたという。 シズネが色々と教えてくれた。 実はあれ以来、カカシとの距離感がよくわからなくなってしまった。 すでに通常業務が始まっているので、2度ほど顔を合わせているのだけど。 カカシに好かれていない事が明らかになったからだろう。 今は気軽に声をかける事もできない。 話す時は目を逸らしてしまいがちだし、声も硬くなる。 どんな顔をしたらいいか考えてしまって、無理やり笑ったりしている。 このまま疎遠になっていくのだろうか。 更衣室でそんな事を考えながら、体操用のジャージから忍服に着替えている時だった。 「いっ、た…」 首まである上着のジッパーに、咽喉元の薄皮を挟まれてしまった。 ちり、と走った痛みに、鏡を見る。 肌の一部が薄っすらと赤くなっていたが、出血はなかった。 ぼんやりしていたのがいけない。 反省しながら着替えを済ませたものの、更衣室を出る時には溜め息が零れた。 「イルカ先生、ちょっといいですか」 その時、突然カカシに声をかけられた。 驚いて肩が跳ね上がる。 出たばかりの溜め息も、ひゅ、と吸い込んでいた。 「最近、オレのこと避けてますよね」 あまりにも唐突で心当たりのない話に、体が固まった。 ふいに返事待ちの沈黙に気づいて、慌てて答える。 「…い、いえ、そんな事は…」 「年末は大変お世話になりました。お礼が遅くなってすいません。で、イルカ先生の態度が変わったのって、あれからですよね」 ぎく、とした。 たしかに、介助に行って以来カカシとの接し方を見失っていた。 「オレを弄ぶの、いいかげんにやめてくれませんか」 「えっ…?」 「散々こっちの気を惹いといて、オレから近付こうとしたら離れていくなんて、ひどすぎる」 カカシの声は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。 気を惹こうとしたつもりなんてない。 弄んでいたつもりなんて、もっとない。 それでも念のために自分の行動を顧みようとした時、カカシから、はっ、と息を呑む音がした。 「…首、内出血してますけど、どうしたんですか」 「あ…」 「昨日はなかったですよね」 「これは…」 後ろめたい事はないのに口ごもってしまった。 どうしてカカシは昨日のイルカの首に痕がなかった事を知っているのだ。 そんな些細な違いがわかるほど、気にかけてくれていたのだろうか。 「これはあの…、さっき誤って…」 「さっき? って、仕事中に過ちをっ? 相手はっ…、相手は誰なんですかっ」 「あやまちというか…、相手といっても…、ジッパー…なんですが…」 言いながら、負傷理由の情けなさに思わず目が泳いでしまった。 いきなり強い力で肩を掴まれる。 「ジッパーって異国の男ですかっ、上忍ですかっ、オレじゃそいつの代わりになりませんかっ」 「え…」 カカシはジッパーの事を人間と勘違いしているようだった。 今の話の流れで、何をどう解釈したらそうなるのだろう。 「ジッパーってジャージの…」 「ジャージなんて国、聞いた事ない! 行きずりだったんですかっ、それとも以前から関係がっ…」 「あの…、全部、いちからご説明しますから、手を離してくれませんか」 躊躇いの滲んだ手が、じり、じり、と少しずつ肩から剥がれていく。 「ちょっと待っていてください」 ジャージを取りに更衣室に戻ると、カカシも後を追って入ってきた。 アカデミーの更衣室が珍しいのか、狭い部屋を隅々まで見回している。 まるで探し物でもするみたいに、カーテンの裏側まで入念に眺めていた。 「カカシさん、これです」 ロッカーからジャージを出した。 再現するのために袖を通し、ジッパーを咽喉元まで引き上げる。 「こうやって噛まれたんです」 まだ疑っているようで、カカシが首のそばに顔を寄せてきた。 じっと見て、すん、と鼻まで澄ませている。 カカシが何を確かめているのか、もうよくわからない。 「…わかりました」 それでもようやく納得してくれたようだった。 その時になって、最初の問題から随分と話が逸れてしまっている事を思い出した。 「すいません、話を戻しますが、俺、カカシさんの事を弄んでなんて…」 「でもイルカ先生、ずっとオレのこと好きだったでしょ」 「なんっ…」 断言されて、かぁーと頬が熱くなった。 急になんなのだ。 誰にも漏らしていなかったのに、どうしてカカシ本人が知っているのだ。 「イルカ先生はわかりやすいんですよ。オレが受付に行くとすぐに嬉しそうな顔するし、オレ以外の人には普通の対応だし」 今更ながらに恥ずかしい。 もしかしてカカシ以外の人にもイルカの気持ちが伝わってしまっていたのだろうか。 例えば、シズネにも。 それでカカシの介助を頼んできたという事はないだろうか。 「真っ直ぐな好き好き光線を延々とぶつけてくるのに、直接的な事は何も言ってこないし、なんの行動も起こさないから、段々オレのほうがイルカ先生を意識し始めちゃって」 意識してくれていたなんて、全然気がつかなかった。 なんだか急に胸のどきどきが耳につき始めた。 顔の熱も高まっていく一方で、無性に居たたまれなくなってくる。 「とどめがあの看病ですよ。会いたい会いたいと思ってた人がうちに来て、夢かと思いました」 会いたいと思っていた? カカシが、イルカに? その言葉のほうが夢みたいだった。 「しかも、あんな超絶うまいおかゆを作ってくれて、あーん、までしてくれて、幸せすぎて死ぬかと思った。早く回復しなきゃいけないのに、本末転倒じゃない。だから必死に自分で食べて」 本当だろうか。 信じていいのだろうか。 嬉しい言葉ばかりで、ちょっとでも気を抜いたら泣いてしまうかもしれない。 「体拭くのだって、イルカ先生に触られたら絶対勃起すると思って、一生懸命に距離を取って」 生々しい単語に、ジャージの袖を、ぎゅ、と握った。 男なら、その危うい感覚は誰もが知っている。 カカシがそこまで正直に話してくれるのなら、自分の事も言わなければいけない気がした。 引き結んでいた唇を開こうとすると、小刻みに震えていた。 「…俺、カカシさんには好かれていないんだと思っていました」 「なんでよ。まるきり反対です。とっくに大好きを飛び越えて、ずぶずぶに惚れ込んでいます」 惚れ込んでいます…惚れ込んでいます…惚れ込んでいます…。 そのセリフが頭の中で、カカシの声で、何度も鳴り響く。 全身から血液が噴き出しそうなくらい、体が熱くなった。 「着替えを出してくれた時なんて、まだ付き合ってもいないのに夫婦みたいじゃない、とか思って浮かれちゃって、すいませんとありがとうさえ、聞き返されても照れて言えなくて」 もう忘れかけていたくせに、悪い意味でなかった事に、今聞いても、ほっとした。 「明日もイルカ先生に会えるんだって楽しみにしてたら、全然違う女が来るし。気持ちが上がったり下がったりして、ああ、これオレ、完全に弄ばれてるなぁって」 「ちがっ、俺っ、そんなつもりはなくてっ…」 「そういうのを魔性って言うんですよ」 ぽかん、と口を開けた状態で動けなくなった。 本気で言っているのだろうか。 魔性なんて、イルカからはもっとも遠い所にある要素じゃないか。 「もうオレたち、付き合うしかないですよね? 異論、ありますか」 「ひぁ…っ!」 突然、ぺろ、と咽喉元を舐め上げられた。 咄嗟に首を押さえて後ずさる。 ちょっとおかしくないだろうか。 ほんの数分前まで距離感に悩んでいた相手が、今はこんなにも近くにいる。 舌が肌に届いてしまうような範囲に。 遠ざかってしまうよりはいいのだろうか。 でも、近すぎても困る。 カカシは口布を下げて、イタズラ小僧みたいな顔で笑っていた。 1日でも早く、この人との適正な距離を掴みたい。 今はただ率直に、そう思った。 |