寝言、って。 完全に盲点だった。 動揺なんてものじゃない。 この日、2度目の地獄だった。 疑われているのは、浮気どころではなかった。 イルカとの関係こそ一時の表面的なものだと思われているのだ。 イルカの所に行くのに、無理をした事なんて一度もないのに。 ただイルカと過ごしたいから行っているのに。 最初から独占できるとは思っていない、って。 危うく泣きそうになった。 本命なんて、イルカ以外にありえないのに。 浮気だってした事がない。 したいと思った事もない。 そもそも、イルカ以外に目移りした事がない。 本妻だって、隠し子だって、本当にいない。 全部、スケアに与えられたクズ男たちのセリフなのだ。 ミオも、ユイも、リエも、サキも。 好きも、別れても、捨てないでも、妊娠させたも。 それがカカシの口から出てしまった場合、どう説明したらいいのだ。 イルカにスケアの正体を明かす時が来たという事なのだろうか。 でも、明かした事でイルカとの関係が壊れてしまったら。 女にだらしない役ばかり来るような男とは一緒にいられない、と言われたら。 イルカから「別れ」なんて言葉が出て錯乱しかけた頭では、策も案も何も浮かばない。 さっきから、ずっと汗が止まらない。 今日だけで何年分かわからないほどの汗をかいている。 「長居してすみません」 スタッフが呼びに来た途端、イルカが席を立った。 「イルカ先生っ」 思わず引き止めていた。 イルカは申し訳なさそうな、困ったような顔をしている。 「嫌いにならないでっ…くだ、さい…」 何も考えられない状態で、咄嗟に出た言葉だった。 一瞬、目を見開いたイルカが、苦しまぎれみたいな笑みを見せた。 「なりませんよ」 カカシを? スケアを? 出ていくイルカの背中が、こんな時でも清廉としていて、みっともなく縋りそうになる言葉を飲み込むしかなかった。 できる限り、心を無にした。 平らな精神の上に、作り物の感情とセリフと動作を置いて、撮影を乗り切る。 シャワーでスケアの気配を洗い流して、イルカの家に直行した。 結局、どんな言い訳をすればいいのか、答えは出ていない。 ひたすら謝って、潔白を訴える。 それでイルカが信じてくれるかどうか。 あとの事はわからない。 好きなのに別れるなんて、どう考えてもおかしい。 納得できるわけがない。 ドアの前で呼吸を整えた。 通常より鼓動が早い。 湿った手のひらを握り込んで、ドアをノックする。 少し待って、ドアが開いた。 「どうぞ」 いつもの「おかえりなさい」はなかった。 目も合わせてくれない。 でも、家には入れてくれた。 こじつけのような明るい要素を、無理やりにでも拾い上げずにはいられない。 イルカの気持ちを尊重して、自分も「ただいま」ではなく「お邪魔します」と声をかけて部屋に上がる。 「来ないでって言われたのに、すみません」 「俺もすみません。朝から唐突でしたよね」 イルカが食卓のいつもの場所に、いつもと違って脚を崩さずに座った。 自分もいつもの場所に、イルカと同じように座る。 改まって向かい合うと、緊張で肩が強張っているのがわかった。 柄にもなく、背筋が伸びる。 「…忙しい時に、わざわざ俺の所に来る必要はないよなぁ、と思ったんです」 いきなり本題だ。 実直なイルカらしい。 「イルカ先生に会いたくても?」 「…習慣というか、義務的になっているのなら、考え直したほうがいいかと」 職員会議かと思うくらい、イルカの声は冷静だった。 その反動なのか、こちらのほうが感情が高ぶってしまいそうになる。 「義務だなんて思ってないです。好きだから会いたいし、好きだからそばにいたい」 イルカの視線は卓の上から動かない。 目を伏せたままで、一向にカカシを見ようとしない。 「オレは、これからもずっと、イルカ先生と」 「それは無理です」 「なんでっ…!」 早く寝言の話をしてほしい。 発端を責めてくれれば、謝って、否定する事ができる。 「俺がいけないんです」 「なんでっ! どこがっ! イルカ先生は何も悪くないじゃない!」 「カカシさんを丸ごと受けとめられる器が、できそうになくて」 丸ごと、ってなんだ。 まさか、本妻も、本命も、隠し子も、複数の浮気相手もいるカカシを、という意味か。 イルカが複数の浮気相手の中のひとりだと思い込んだまま。 「もっと早く気づけばよかったんですけど。すみません」 「なんで謝るんですかっ、謝られたってオレはっ、イルカ先生を…っ」 「許してください…」 「おかしいでしょ! 好きなのに! 大事なのに! イルカ先生がいなかったら生きていけないのに!」 話が望まない方向へと、どんどん進んでいく。 まだ寝言の事にも触れてくれない。 肝心な事は黙ったままで終わらせようとしているのか。 「…カカシさんは…俺がいなくても…大丈夫です、から…」 「大丈夫じゃない!」 イルカの声は震えていた。 けしてカカシのせいにしないイルカの潔さが、今は恨めしい。 「死ぬまで、死んでからも、来世でも、ずっとイルカ先生と一緒にいたいんです」 「…もう…やめて…ください…」 「やめません。今までの人生で色んな事を諦めてきたけど、イルカ先生だけは諦められない」 「…お願いですから…もうやめてくださ…みんなに同じ事を言ってるって…わかって…」 みんなに、同じ事を。 イルカは完全に涙声だった。 こんなに愛を叫んでも届かないのは、イルカだけに向けた言葉ではないと思われているからなのか。 深く俯いていて、顔は見えないけれど、たぶん泣かせてしまった。 大切な人を泣かせるなんて、最低な男だ。 「…みんなって、誰の事ですか」 イルカを追い詰めるような言い方になってしまうのが、不甲斐ない。 見かけ倒しの女たらしの自分には、こういう時に上手く運ぶ話術がない。 ただ謝らせてほしくて、潔白を信じてほしいだけなのに。 「…なんでも…ないです。忘れてくださ…」 「誰ですか。みんなって」 はぐらかそうとするイルカに何度も何度も問い質して、ようやくぽつぽつと語り始めた。 内容は、さっきスケアに話してくれた事と同じだった。 また、変な汗が出てくる。 ここへ来て、致命的な重要事項を思い出してしまった。 言い訳を考えていなかったのだ。 「好きなのはイルカ先生だけです。浮気なんてしてないです。妊娠なんてさせた事ないし、子どももいません」 言っている自分ですら、白々しく聞こえた。 否定をするだけでは、なんの説得力もない。 イルカも黙ったまま、顔を上げてくれない。 「全部違うんです。オレとは関係のない事なんです」 本当の事なのに、嘘をついているような言葉の薄っぺらさが、自分でも嫌になる。 違うなら、関係がないのなら、なぜ寝ている時に口から出るのか。 イルカの言いたい事が手に取るようにわかった。 スケアの正体が自分であると伝えたら、丸く収まるのだろうか。 でももし、失敗したら。 これまでのイルカとの時間まで演技だと疑われて、もっとこじれたりしたら。 でももう、現状を打開する選択肢が、他に思いつかない。 「…実は…、オレ…」 イルカがカカシの声に集中しているのがわかった。 一度明かしてしまったら、もう後戻りはできない。 本当にそれでいいのか、と自分自身に問いかける。 「…スケアの…」 ぴく、とわずかにイルカの肩が起き上がった。 でもまだ表情は見えない。 「…スケアの…」 女好き、ろくでなし、優男。 世間的なスケアの印象が頭をよぎった。 駄目だ。 よく思ってくれるわけがない。 絶対に愛想を尽かされる。 イルカに嫌われたら、生きている意味がない。 「…ファンなんです…」 ぱっ、とイルカの顔が上がった。 濡れた瞳が大きく見開かれている。 咄嗟に出た嘘だった。 恥ずかしくて死にそうだ。 でも、イルカを失うより、趣味でクズ男を好んでいると思われるほうが、遙かにいい。 「…全部、スケアのセリフなんです…。スケアが出るドラマとか映画の台本を見たら覚えてしまって…」 事実ではあった。 信憑性を高めるために、寝言に出ていた女性の名前と作品名、公開予定日をひとつずつ説明する。 イルカにとっては、どうでもいい事だろう。 程度の低い言い訳だ。 それでもイルカは、ひと言も聞き漏らすまいという姿勢で、真面目に耳を傾けてくれた。 「台本を見る機会があったんですか」 「火影室で…、スケアが綱手姫と打ち合わせをしていて」 嘘ではないけれど、嘘をついている気分だった。 イルカには常に誠実でいたいのに。 「火影室でスケアさんに…」 ぼそ、と呟いたイルカの顔が、なぜか輝いているように見えた。 目が涙で潤んでいるせいだろうか。 「疑ったりして、すみませんでした」 「ぇ…ぁ、とっ…、とんでもないっ…!」 突如として危機を脱した事を悟った。 張りつめきった緊張が、風船がしぼむみたいに、ぷしゅーっと体から抜けていく。 「オレのほうこそ、変な事でわずらわせてすみませんでした…」 イルカが鼻の下をこすって、照れくさそうに笑った。 あまりの神々しさに、まばたきが止まらなくなる。 ああ、やっと。 やっと愛しい人が手の届く所まで戻ってきてくれた。 この笑顔のためなら、自分はこの先、どんな困難でも乗り越えてゆける。 |