はじまりのチョコレート |
飲みに行く約束をしていたので、いつものように上忍待機所へカカシを迎えに行った。 入口から、お疲れさまです、と声をかけようとした口を、咄嗟に噤んだ。 「カカシさん、ちょっとお時間よろしいですか」 「なに?」 カカシが女性に話しかけられていて、慌てて廊下に戻った。 ざわつく胸に手を当てて、そっと深呼吸をする。 今日はただの金曜日じゃない。 年に一度のバレンタインデーだ。 先週、カカシに誘われるままに、何も考えずに返事をした自分が迂闊だった。 10分待って、もう一度待機所を覗いてみよう。 話が終わっていなかったら、また10分待とう。 終わっていたら、カカシに断りを入れて帰ろう。 カカシは今、恋人はいないはずだ。 告白のあとは、じゃあ食事でも、となるのが一般的な流れだろう。 「イルカ先生」 ふいにカカシが待機所から顔を出した。 まだ1分も経っていない。 すんなりと話がまとまったのだろうか。 カカシの手には、いかにも高級そうな、厚手で小ぶりな紙袋が提がっている。 「お待たせしてすみません」 「いえ、全然。俺、今日は帰りますね」 「え、なんで」 潔く踵を返したら、腕を掴まれた。 簡単には振りほどけないくらい、がっちりと。 「…カカシ先生、用事があるんじゃないですか」 「ないよ」 「え? ないんですか?」 「ないよ。イルカ先生と飲みに行く以外の用事は」 「でも、さっきの人は…」 いいのだろうか。 ぱっと見た限りでは、すらりとして、きれいな人だった。 華のない自分と過ごすよりは、よっぽど充実した時間になるのではないだろうか。 「気にしないでください。なんでもないから。さ、行きましょ」 カカシに促されて、並んで歩き出した。 告白ではなかったのだろうか。 そうなると、カカシが持っている紙袋はなんなのだろう。 他の人からもらったものなのだろうか。 だったらどうしてひとつだけなのだろう。 カカシなら、もっとたくさんあってもいいはずだ。 自分でさえ、駄菓子程度の義理チョコだけは、いくつかもらった。 もしかして、本命から渡されたものなのだろうか。 だからひとつだけ持っているのだろうか。 一瞬のうちに、疑問が次々と頭をよぎっていく。 カカシの様子はいつもと変わらない。 紙袋を持っている以外は。 誰にもらったのだろう。 何が入っているのだろう。 尋ねたら変に思われるだろうか。 なんでもない、と言っていたのだ。 関係のないイルカに詮索されるのは嫌だろう。 そうだ、自分はカカシの紙袋には関係のない人間なのだ。 しん、と頭の芯が凪いで、視界が薄暗く開けていく。 自分は、カカシが受け持つ下忍の、元担任だ。 飲み仲間か、仕事仲間くらいでしかない。 踏み込んではいけない領域があるだろう。 節度は守るべきだ。 頭を振って、余計な考えを追い払った。 「今日はどこにしましょうか」 努めて明るい声を出した。 当たり障りのない話をしながら、建物を出る。 門の脇に、女性が立っていた。 清楚で、かわいらしいお嬢さんだった。 また胸がざわざわしてくる。 「カカシさん」 門の女性が、か細い声で恥ずかしそうに呼びかけた。 思った通りだ。 もういい。 今日は無理だ。 こんな日に約束なんてするんじゃなかった。 カカシの隣にふさわしいのは、少なくても自分ではない。 いないほうがカカシのためだ。 「やっぱり俺、帰りますね」 女性の前で立ち止まったカカシを、追い抜きながら小声で伝えた。 かすれてはいたけれど、聞き取るには問題なかっただろう。 肩越しに会釈をして、早足になる。 カカシがモテるという噂は本当だった。 別に疑っていたわけではないけれど、実際に目の当たりにすると、自分との落差に怯んでしまう。 本来なら、2人で気軽に飲みに行けるような存在ではないのだ。 カカシをおとしめないためにも、距離感を改めたほうがいいのかもしれない。 「すいません、イルカ先生。邪魔が入ってばかりで」 カカシが足音もなく、隣に並んできた。 邪魔なのは彼女たちではなく、イルカのほうだ。 今までより間隔を広めに取り、近づきすぎないように心がける。 「…軽蔑、しましたか」 「そんな、しませんよ」 「じゃあ、飲みに行ってくれますよね?」 「いえ、今日は帰ります」 「さっきの事なら気にしないでください」 「違うんです。今日はあまり調子がよくなくて…。約束していたのに、すみません」 お疲れさまでした、失礼します、と続けようとしたら、カカシに先手を打たれた。 「家まで送ります」 「そんな、いいです」 「飲まなくなった分、送るくらいはさせてください」 取消料金だ、と言われた気がした。 イルカを送る事でカカシが得をする事なんて何もないけれど、自分から断った手前、強くは拒みにくい。 そのまま黙って歩いていたら、カカシは本当に家までついてきた。 外階段を上がって、わざわざ玄関の前まで。 「ありがとうございました」 「イルカ先生」 カカシが、あの紙袋をこちらへ差し出してきた。 いらないものだったのか。 それを引き取ってほしい、という事なのか。 「好きです。オレと付き合ってください」 「え…っ」 「今日は好きな人にチョコレートを渡して告白していい日なんですよね」 ドアノブを掴んだまま固まった。 動けないでいると、カカシに手を取られた。 どきっ、と竦んでいるうちに、紙袋の持ち手を握らされる。 カカシと付き合うなんて、考えた事もなかった。 好きか嫌いか問われれば好きと答えるけれど、これを恋愛感情だと思った事もなかった。 紙袋は受け取れない。 すぐに返そうとすると、カカシが素早く後ずさった。 「あの…。お気持ちは嬉しいんですけど…。こういうのは困ります…」 「ちゃんと考えてみてくれませんか。返事はそれからで」 本気ですから、と最後に言い残してカカシは姿を消した。 紙袋の中身はチョコレートだった。 貴金属でも入っていそうな上等な箱に、8粒が宝石のように上品に収まっていた。 見た事がないくらい、つやつやと輝いていた。 きっと、とても高価なものなのだろう。 箱は開けてしまったけれど、食べていいかまだ迷っていて、そのままになっている。 もう2週間だ。 今度会った時に、そろそろ時間を作ってほしいと伝えるつもりだった。 カカシの事は、寝る前に毎日ちゃんと考えている。 告白されてから初めてカカシに会ったのは、たしか5日目くらいで。 カカシが受付に入ってきた時から、ものすごく意識していた。 報告書を受け取る動きもぎこちなくて、誤って手が触れてしまった。 それだけで、かぁーと体が熱くなった。 今まで、こんな事はなかった。 事務的なやり取りだけなのに、目を合わせるのも恥ずかしかった。 その次は、たしか7日目。 受付に座ると、カカシが来ないかそわそわと入口を確かめるようになっていた。 イルカがいる時間に、いつも会えるとは限らないと、わかってはいるのに。 カカシ以外の人が入ってくるたびに、がっくりと肩を落としそうになった。 だから、本当にカカシが現れた時は嬉しくて、大声で名前を叫びそうになった。 迷わずにイルカの窓口に並んでくれた事も嬉しかった。 列の先頭にいる人の報告書を処理するごとに、どんどんカカシが近づいてきて。 胸の高鳴りが、どんどん激しくなってきて。 ようやく目の前に来たと思っても、検める時間はカカシの時だけやけに短くて。 あっという間に、またカカシは受付を出ていってしまう。 背中が見えなくなるまで目で追うのが、くせになっていた。 焼きついた残像で、毎回胸が苦しくなる。 今週会えたのは、一度だけ。 3日前の事だ。 カカシではない上忍に、書類を届けに待機所へ行ったら、ソファーに座っていた。 隣に、色っぽくて凛々しい女性がいて、親しげに話していた。 口説かれていないか心配になった。 でもよく見たら、女性は紅で、向かいにはアスマもいた。 愕然とした。 でも、その反動なのか、急にすんなりと認める事ができた。 カカシに恋をしている、と。 |