今日は19時30分から懇親会が入っていた。 3年に一度開かれる大規模な会だ。 アカデミーが卒業入学で忙しくなる前の2月に、いつも居酒屋を貸し切って催される。 少し早めに会場に着き、入口にも調理場にも近い場所に腰を下ろした。 どこに座っても構わないのだけど、何かと動ける席のほうが気楽だ。 時間になると、8割ほどの席が埋まった。 幹事の音頭で宴会が始まり、遅れてやって来た人たちがさらに空席を埋めていく。 それでも自分のいる6人掛けのテーブルは不人気で、向かい側の空きがまだ2席もあった。 かわいい子よ来い、最低でも女子、と期待を募らせている同僚の隣で、2本目の中瓶を手酌している時だった。 「ここ、いいですか」 「奥にも、お席ありますよ」 隣の同僚が逸速く応じた。 尋ねた人の声には聞き覚えがあって、じわじわと頬が熱くなってくる。 他の席に行ってしまうか、残ってくれるか。 「ここじゃ、まずいですか」 「いえ、むしろ落ち着かない席ですけど、よろしいんでしょうか」 「うん。大丈夫」 斜め向かいのイスを引く音がした。 隣り合ってあいていたうちの、イルカに近いほうの1席だ。 同僚には申し訳ないけれど嬉しくて、火照った頬が緩みそうになる。 そっと視線を上げると、カカシが口布を下ろす所だった。 「オレもビール、いただいていいですか」 カカシが、伏せられていたグラスの口を返して構えていた。 少し困った顔で微笑んでいる。 1秒か、それに満たないわずかな時間、カカシに見惚れていた。 慌てて、でも泡だらけにならないように気をつけて注いだ。 「お疲れさまです」 声を合わせてグラスを当て鳴らす。 のどが渇いていたのか、カカシは1杯目を一気に飲み干した。 注ぎ足そうとしたけれど、もう遅かった。 その役目は、たぶん二度と自分には回ってこない。 空席だったはずのカカシの隣に、いつの間にか女性が座っていた。 すかさず彼女が酌をしている。 「席、ちょっとだけ代わってもらえませんか?」 イルカの正面で、カカシのもう一方の隣に座っていた同僚が、女性に問われていた。 彼は苦笑いでグラスを持ち、奥の空席に移っていった。 「カカシさんって、指きれいなんですね」 イルカの正面に座ったばかりの女性が、カカシの手を掬って、婀娜っぽく指先を撫でた。 あまりの生々しさに、思わず目を逸らす。 モテる人の、カカシの気を惹くというのは、こういう事なのだ。 これくらいしないと、カカシは手に入らない人なのだ。 そんな人と自分が、本当に付き合えるのだろうか。 付き合ってもいいのだろうか。 本当に、付き合ってと言われたのだろうか。 自分の記憶に自信がなくなってくる。 チョコレートを渡されて勘違いして、ひとりで勝手に盛り上がっていただけなのではないだろうか。 「カカシさん、なに食べます? お刺身とか、おいしかったですよ」 「お刺身だと、日本酒のほうがいいですか?」 後方、頭上から、女性たちの声が次々と降ってきた。 カカシには見えない位置から、急かすように背中をつつかれる。 どいて、という意味だろう。 「…座りますか」 「いいんですか。すいません」 わざとらしい、とは思ったけれど、余計な事は口にしなかった。 カカシも男に囲まれているより、よっぽど楽しいだろう。 グラスを持って席を立った。 がらがらになっていた2つ先のテーブルの1席に座り直す。 最初にイルカの隣にいた同僚も、同じく追い出されて再び隣にやって来た。 酒瓶とグラスを持っている。 「女子って残酷だよなぁ…。おれらには見向きもしないくせにぃ…」 同僚が、ため息まじりに呟いた。 もう酔っているのか、呂律も目つきもあやしい。 「選び放題、お持ち帰り放題って羨ましすぎるだろぉ…。カカシさんなら仕方ないけどさぁ…」 そうか。 大人の男女ならば、飲み会のあとに関係を持つ事もある。 お酒が入っていて、あれだけ秋波を送られていれば、その気にもなるだろう。 「今日こそはひとりぐらい、って気合入れてたのにぃ…」 同僚がグラスを呷った。 彼が飲んでいるのは、ビールではなく日本酒だった。 早くも四合瓶をひとりであけてしまったようだ。 「飲みすぎじゃないか」 「らいじょうぶらってぇ…」 「大丈夫じゃないだろ。水持ってくる」 調理場の近くの冷水器へ向かった。 通りかかったカカシのいるテーブルから、女性の高揚した声が聞こえてくる。 「この中で、カカシさんの一番好みの人って、誰ですかぁ?」 「イルカ先生」 どき、ぎく、が同時に来た。 顔が、かぁーっと熱くなる。 その瞬間、カカシのテーブルに爆笑が起こった。 女性たちが笑い転げんばかりの勢いで、イスをがたがたと鳴らしている。 「即答!」 「そういう好みじゃなくて!」 「誰も傷つけないようにって配慮とかいらないですからー!」 「カカシさんって冗談のセンスまでいいんですね!」 すっ、と体温が下がった気がした。 そうだよな。 やっぱり冗談としか思えないよな。 「オレ、イルカ先生とセックスしたいよ」 カカシが、とぼけたように淡々と続けた。 どかん、と音がしそうなほどの爆笑が再び起こる。 水の入ったグラスを掴むと、あたたかく感じるほど手が冷えていた。 カカシに恋をしたなんて、馬鹿じゃないのか。 からかわれた事にも気がつかないで、真に受けて。 本気だなんて、ありえないじゃないか。 つり合うわけがない。 わざわざ時間を作ってもらう必要なんて、最初からなかったのだ。 チョコレートは返そう。 いや、変に意識していると思われないように、黙って処分するほうがいいかもしれない。 席に戻ると、同僚がテーブルに突っ伏していた。 「水、飲めるか」 「おぅ…。ありがと…」 ごく、ごく、とひと息で飲んでしまう。 予備のもう1杯を渡しても、すぐになくなった。 「はぁー…。このムラムラした気持ちはどうしたらいいんだよぉ…。おれも女の子といちゃいちゃしたいぃ…。キスしたいぃ…」 よしよし、となだめるように同僚の背中をさする。 途端に同僚の目尻に涙が浮いたように見えた。 ふらぁ、と伸びてきた腕が首元に絡んで、縋りつかれる。 「イルカぁ…。おれはキスがしたいんだよぉ…。もう誰でもいいからぁ…男でもいいからぁ…もうイルカでいいからぁ…」 「よくないだろ。やめろって」 その気もないくせに唇を尖らせてきた同僚の額を押さえて、顔を背ける。 こんな茶番をカカシに見られたくない。 見られた所で、なんとも思われないだろうけれど。 女性たちとの話に夢中で、気づかれる事すらないだろうけれど。 「…イルカ先生でいいって、どういう事ですか」 その声に、首元の腕がほどけた。 カカシが同僚の後ろ襟を掴み、引き倒す寸前の所だった。 仰け反った同僚は、しゃちほこのような体勢で固まっている。 何が起こっているのか、よくわかっていない様子だった。 「我慢して仕方なくイルカ先生とするって事ですか。だったら他の人にしてくれますか。どうしてもイルカ先生がいいって男が、ここにいるので」 あんなににぎやかだった店内が静まり返っていた。 全方位から注がれる好奇の視線が、痛い。 とても耐えられるものではなくて、ビール瓶を掴んだ。 残っていた4分の1ほどをラッパ飲みする。 さっと口を拭って、立ち上がった。 「…帰ります」 小さくはない声で、誰にともなく告げた。 入口付近のテーブルにまとめられていた荷物から、自分の鞄を取って店を出る。 戸が閉まった途端、再び店内に活気が戻っていくのが聞こえた。 きっとまた、冗談として笑い話で収まったのだろう。 固く唇を引き結んで、その場を離れた。 カカシの本心はどちらなのだろう。 すべては会を盛り上げるための言動だったのか、本当に好意を持たれているのか。 考えていたら苦しくなって、唇を噛んで足を速めた。 早く帰りたい。 油断したら泣いてしまいそうだ。 アパートに着くまでは持ちこたえたけれど、外階段を上がっていく震動に負けてしまった。 もういいか、と思って流れるままにして鍵を開ける。 部屋に入ろうとすると、鞄を引っ張られる力を感じて振り返った。 「すいません、イルカ先生、待ってください」 前屈みになったカカシが膝に手をついて、はぁ、はぁ、と肩で息をしていた。 顔を上げる気配がして、濡れた頬を慌ててこする。 「テンパって探し回ったんだけど、家に行けばいいんだって、途中で気がついて…。さっきは、すみませんでした」 「…俺もすみません。ああいう状況に慣れていなくて。もっと面白おかしく躱せればよかったんですけど」 みっともない鼻声で、泣いた事はばれてしまっただろう。 せめて俯きがちに、カカシの視界に顔が入らないほうを向いた。 「本当にすみません…。でも、冗談とか、からかったとか、ふざけて言ったとかじゃないんです。周りにどう思われようと、オレは本気です。勘違いされていたら嫌だから、それだけ伝えに来ました」 どんな顔で、そんな事を言っているのだろう。 そんな事を言われて、こちらがどう思うか、考えているのだろうか。 もう、今にしよう、と思った。 「引きとめてすいませんでした。失礼します」 「カカシ先生。この前のお返事、させてください」 踵を返しかけたカカシの体が、ぴたりと止まった。 ゆっくりとこちらに向き直ってくる。 百戦錬磨の上忍が緊張でもしているのか、若干、顔が強張っているように見えた。 いい返事と悪い返事、どちらを想像しているのだろう。 「俺、ちゃんと考えました。チョコレートも食べていいかわからなくて、まだそのままです」 正直に話すと、カカシが目を伏せた。 目元に薄暗い影が差す。 猫背のせいか、肩まで落ちているように見えた。 自分の至らなさで、そんな気配を纏わせてしまうのが申し訳ない。 「カカシ先生が俺を想ってくれているなんて、誰も信じないよなって、今日すごく実感して」 これから発する言葉が自分でも重たくて、小さく深呼吸をしたら、ため息みたいになってしまった。 「…赤の他人がなんと言おうが、オレはイルカ先生が好きです」 「それがわかったから、自分だけは信じてみようと思いました。カカシ先生が好きです。俺と付き合ってください」 誠意を返したくて、カカシをまっすぐに見つめた。 周りが信じてくれない事も、カカシがモテる事も、自分とはつり合わない事も、すべてを引き受けてみせる。 下がっていたカカシの肩が、竦み上がるようにして起き戻ってくる。 小刻みに震えているようにも見えた。 翳っていた顔が、眩しいくらいに輝いている。 「い、いいんですか…。嬉しい…。マジか…。ありがとうございます…。もうダメかと…」 「回りくどい言い方をしてすみません」 「違うんです。さっきオレのせいでイルカ先生に嫌な思いをさせたから…。あの…、ちょっと、抱きしめてもいいですか…」 どこかぼんやりとしたカカシが、胸を開いて、両腕を構えた。 照れくさくて、つい笑ってしまう。 それでも、こちらもカカシを包む分だけ腕を広げて、最初の一歩を踏み出した。 |