いとしいあなた |
2泊3日の短期任務から帰ってきた朝。 預けていた紅の家にイルカを迎えに行き、自宅に着いて最初にする仕事は洗濯だった。 乾燥機が付いているので、洗って乾かすまでは機械がやってくれる。 「カカシせんせい」 「んー?」 「これ、よんでくれませんか」 午後になって、仕上がった洗濯物を畳んでいたカカシの元に、小さなイルカが童話の絵本を持ってきた。 主人公が悪者を退治する、里では定番の物語だ。 すでに何度もイルカに読んだ事がある。 「ごめん。あとでね」 「あとでっていつ? おひるねのあとですか?」 「んー…」 洗濯物を畳み終えたら、風呂と部屋を掃除して、買い物に行って、夕飯の支度をして、そのあとかな。 って、そうしたらイルカに夕飯を食べさせて、後片づけをして、風呂に入れて、寝かしつけて、今日が終わる。 分身を作って分担する方法もあるけれど、日常生活では極力チャクラを温存したい。 気苦労をかけてばかりだったイルカに、その一部でも恩返しできる今回のような機会は滅多にないので、イルカの世話もできるだけ自分がしたいし。 返答に困っているうちに、イルカが自主的に座布団の上で横になった。 しばらくすると、穏やかで愛しい寝息が聞こえてきた。 あどけなくて、かわいい。 口元も目元も勝手に緩んでしまう。 絵本を持ってくるまでやっていた、おもちゃの手裏剣を的に当てる遊びで疲れたのかもしれない。 イルカとのあいだに子どもができたら、こんな感じなのだろうか。 男同士なので、実現しないはずの夢が叶っている状態と言えなくもない。 これで大人のイルカがいてくれたらなぁ、とつい思ってしまう。 イルカが3、4歳児の姿になって、カカシの家で過ごすようになってから、もうすぐ2週間が経つ。 大人だった頃の記憶はないし、元に戻る気配もない。 そのわりには、大人のイルカを小さくしただけのような慎ましい子どもだ。 幼少期のイルカはやんちゃだったと聞いていたのだけど。 あと、カカシを慕ってくれている。 表立って明かしていたわけではないけれど、自分たちの関係を知っていた綱手の計らいで、小さいイルカと火影室で初めて対面した時だ。 不安そうに椅子に座っていたイルカが、ぱぁーっと顔を輝かせてカカシに駆け寄ってきてくれたのだ。 あまりにも愛おしくて、ぎゅっと抱きしめる力の加減に苦労した。 記憶はなくても、2人で育んできた関係性が確実にイルカの中に根付いている事を感じた。 イルカが小さくなったのは、書庫の整理をしている時だったそうだ。 いくつかの古い巻き物が棚の上から落ちてきて、そのうちのひとつに収められていた術が発動してしまったらしい。 術式がクセのある旧字体な上に、ひどく長くて複雑らしく、解析するのに時間がかかるとの事だった。 日中はイルカを保育園に預け、任務で何日か帰れない時は紅に。 紅も、イルカは手のかからない子だと言っていた。 ミライの面倒をよく見る、いいお兄ちゃんなのだそうだ。 風呂掃除のあと、静音モードで部屋に掃除機をかけていると、イルカが起きてきた。 「カカシせんせい」 目をこすりながら、もう片方の手に絵本を持っている。 「あと5分待って」 「ごふんって、どのくらい?」 「時計の針の長いほうが、次の数字を差すまで」 「わかりました」 イルカが目覚まし時計の前に立ち、勇ましく両手を上げた。 「ながいはり、がんばれ! ながいはり、がんばれ!」 針を応援したら早く進むと思っているのだろう。 愛おしい。 こういう姿が、たまらなく。 イルカに見惚れて止まりそうになっていた手を、慌てて動かす。 1秒でも早く終わらせなければ、との思いで掃除機をかけ終えると、電源を切った途端にイルカが駆け寄ってきた。 「そうじき、おわりましたか」 「うん。どこから読む? 最初から?」 「きのうのつづきからおねがいします」 「じゃあ、続きのページを開いておいて? 掃除機、片付けてくるから」 「はい!」 その場でイルカがぺたんと座り込み、超高速でページをめくった。 手裏剣遊びの成果だろうか。 掃除機を片付けて戻り、あぐらの中央にイルカを乗せる体勢になる。 音読を始めると、イルカはいつも同じ場面で怖がり、悲しみ、興奮し、笑う。 読書の楽しみは自分もよくわかるけれど、自分で読めないというのは不便なものだ。 「今日はここまでにしよう」 「もうすこしだけ」 「そろそろ買い物に行かないと。今度、文字の勉強をしよう。自分で読めるようになると、もっと面白いよ」 でも、イルカの表情の変化を間近で見られる機会が減るのはさびしいかもしれない。 そう思いながらも、ぱたん、と絵本を閉じる。 名残惜しかったのか、イルカは何秒か固まったように動かなかった。 「買い物、行こう?」 声をかけると、イルカが返事をして絵本を片付けた。 夕飯の支度中、イルカに服の裾をつんつんと引かれた。 「カカシせんせい、もじをおしえてください」 「うん。いいよ。ごはんのあとでね」 「おれ、ごはんつくるの、てつだいます」 「ありがと。じゃあ、プチトマトを洗ってもらおうかな」 「はい!」 大人の手伝いをしたい時期なのか、こうしてイルカから申し出られる事がよくあった。 洗濯物を畳むのを手伝ってもらった事もある。 今日は手裏剣に夢中になっていたせいか、参加してこなかったけれど。 家事を手伝いたいという気持ちは嬉しい。 ただ、限られた時間の中で教えたり見守ったりするのは、ちょっと大変だ。 成功も失敗も、楽しくて幸せな瞬間なので、大切にしたい気持ちが満々であっても。 そういう時、無性に元のイルカが恋しくなる。 子どもと向き合っている時のこの気持ちを、イルカに話したくて。 どうしたらいいのかわからないんだけど、とても愛おしいという事を、イルカと共有したくて。 でも、そんな考えを持った事を、激しく後悔していた。 この充実した生活に突然、幕が下りようとしていると気がついた時に。 たぶん、天罰が下ったのだ。 かけがえのないイルカとの時間を、少しでも大変だと思ったから。 元のイルカを求める事は、小さいイルカをないがしろにする事でもあったから。 こんなに愛おしい存在は、存在するだけですべてが肯定されているというのに。 イルカに初めて文字を教えた日から、1週間ほどが過ぎた頃だった。 夕方までの任務を終えて報告書を出し、いつものようにイルカを保育園に迎えに行った。 担当の保育士に、もうイルカは帰ったと言われ。 おや? と思いながら、紅の所に行き。 今日は迎えに行っていない、という事がわかり。 まさかイルカがひとりでカカシの家に帰ったのか? と慌てて帰宅すると。 半分に折った銀色の折り紙が、ポストに入っていた。 嫌な予感がして、震えそうになる手で、おそるおそる折り紙を開いた。 『ひとりで くらします』 覚えたばかりの、まだたどたどしいイルカの筆跡だった。 |