自分を迎えに来るのは、どんな人なのだろう。 新しい火影様は、とても強い忍者だよ、と言っていた。 父ちゃんや母ちゃんよりも強いのだろうか。 今は2人とも里にいないそうだけど。 怖い人だったらどうしよう。 一緒に行きたくないと言ったら、火影様は聞き入れてくれるのだろうか。 不安で、ずっと下を向いていたら、火影様が絵本をくれた。 でも読む気にはなれなくて、ずっと閉じたまま膝の上に置いていた。 「来たよ」 火影様の言葉に、びく、と肩が竦んだ。 両手を固く握ってしまう。 半開きだったドアの隙間から、その人が姿を現した。 背が高くて、銀髪。 斜めがけの額当てと、口布。 見るからにあやしい風貌なのに、なぜか知っている人として頭をよぎった影があった。 思わず駆け出していた。 屈んだその人に抱きつくと、がっちりと受けとめてくれた。 この人がいれば、大丈夫。 理由はわからないけれど、底なしの安心感に包まれている気がした。 火影様にもらった絵本をカカシに読んでもらった。 強い忍者が出てくる話で、カカシが活躍しているみたいで大好きな本になった。 お昼ごはんのあと、手裏剣の練習をしているうちに、また読みたくなって、カカシに頼んでみたけれど。 「ごめん。あとでね」 胸が、ずきっとした。 カカシのこの言葉を聞くと、いつもそうだ。 悪い事をしてしまった気分になる。 痛みと気分をごまかすためにも、一刻も早く大好きな絵本を読みたい。 お昼寝のあとだったのが、掃除機のあとになって。 忍者が敵を倒して里に帰る所までを見たかったのに、戦う所で終わってしまって。 「今度、文字の勉強をしよう。自分で読めるようになると、もっと面白いよ」 また胸が、ずきっとした。 動けなくなった。 急に気がついてしまった。 カカシはもう、イルカに絵本を読むのが嫌なのだ、と。 だから文字を覚えて、自分で読めるように、と言ったのだ。 洗濯やごはんを手伝いたいと言った時も、カカシはなんでも自由にやらせてくれる。 たぶんそれも、カカシはイルカのために何かをする事が、本当は嫌だから。 なんでもやらせて、なんでも覚えれば、早くイルカがいなくなるから。 手伝っていると、じっと見てくるから緊張していたけれど、ちゃんとできているか確かめていたのだろう。 大好きなカカシに邪魔者だと思われるのは悲しい。 カカシの所からいなくなれば、きっと邪魔者だとは思われなくなる。 家にいる時のカカシは、いつも忙しそうにしているから、イルカと一緒に暮らさなくなれば、もっと遊んでくれるようになるかもしれない。 カカシがいない時に行く、紅という女の人の所でも、いつも手伝える事を探していた。 たくさんの事を覚えれば、早くカカシの所からいなくなれるから。 この前は、お湯の作り方を教えてもらった。 これでひとりでもカップ麺が食べられるわね、と言われた。 かっぷめんってなに? と尋ねると、実物を見せてくれて、作ってくれて、食べさせてくれた。 めちゃくちゃおいしかった。 カカシのごはんもおいしいけれど、カップ麺なら、もうひとりで作れる。 紅からは他にも色々な話を聞いた。 イルカは術で子どもになっているだけで、本当は大人なのだ、と。 大人の時はひとりで暮らしていた、と。 カカシとは仲よしだったから、早く元に戻ったほうがカカシも喜ぶ、と。 イルカより小さいミライと紅の3人で散歩に行った時に、大人のイルカが住んでいたという家を教えてくれた。 カカシの家に帰って、自分の荷物を見てみたら、鍵が入っていた。 古びた財布もあって、お金も入っていた。 カカシが使っているのを見た事はないから、大人のイルカの持ち物なのだろう。 これでカカシの所からいなくなれる。 保育園にあった折り紙で、一番カカシっぽい色を選んで、手紙を書いた。 園の先生に、これからはひとりで帰ります、と伝えた。 そうなの? と驚かれたけれど、すぐに先生は納得したように、気をつけてね、と送り出してくれた。 まだ体は小さくても、イルカが大人に戻ったと思ったのかもしれない。 カカシの家に手紙を入れてから、初めてひとりで大人のイルカの家に行った。 あの鍵を差し込むと、ぴったりとはまった。 横に捻ったら、おもちゃみたいな軽い音がして、開いた。 やはりこの家の鍵だったのだ。 おそるおそる中に入る。 カカシの家より古くて、狭い。 今日からここで暮らすのだ。 うろうろと探検しているうちに、うがいと手洗いがまだだった事を思い出した。 台所も洗面所も、蛇口に手が届かない。 カカシの家には、ちょうどいい踏み台が用意されていたけれど、ここにはなさそうだ。 居間にあった座布団を重ねてみたけれど、まだ届かない。 重たい卓袱台を、ちょっとずつ押したり引いたりして台所に移した。 なんだかそれだけで疲れてしまった。 それでも卓の端に乗って、蛇口に手をかけようとした。 その瞬間、ばたん! と大きな音がして、後ろ側の卓が跳ね上がった。 どこか硬い所に頭をぶつけて、痛い、と思った所で目の前が真っ暗になった。 「…かっ、イルカっ! イルカっ…!」 繰り返し呼ぶ声に目を開ける。 体が、びくっ、となった。 カカシが見た事のない怖い顔でこちらを見下ろしていたから。 たぶん、ものすごく怒っている。 どうしてだろう。 やっとカカシの所からいなくなれたのに。 「自分の名前を言えますかっ…?」 「…うみの…イルカ…」 「オレが誰だかわかりますかっ?」 「…カカシせんせい…」 体を起こすと、カカシが背中に手を回して支えてくれた。 急におでこが、ずき、として、ぎゅっと目をつむる。 「どこが痛い?」 「…ここ…」 おでこを指すと、カカシの手が当てられて、すぐに痛みが消えた。 治してくれたのだろうか。 強い忍者はこんな事までできるのか。 「まだ痛い?」 「もうだいじょうぶです」 「そっか…」 カカシが、ふぅ…、と息をついた。 もういつもの優しい顔に戻っている。 「…うちに帰ろう?」 どうしてそんな事を言うのだろう。 本当はイルカと暮らすのが嫌なくせに。 ずき、と痛んだ胸の辺りの服を、ぎゅっと掴んだ。 「そこも痛いの?」 カカシが胸に手を当ててくれた。 まだ痛むか聞かれて、首を横に振った。 「ひとり暮らしは、もっと大きくなってからでもよくないですか…?」 「もうひとりでくらせます。おれがいないほうがカカシせんせいはうれしいんです」 また胸が痛んだ。 さっきカカシが治してくれたはずなのに苦しくて、涙が出てきた。 カカシはイルカがいないほうがいい。 自分の口から出た言葉が、何度も何度も胸に突き刺さってくる。 「…ごめんなさい」 そう呟いたカカシの広い胸に抱き込まれた。 いたわるように頭を撫でられる。 「オレはあなたがいるほうが嬉しいんです」 「…おれは…いないほうが…」 「そう思わせるような態度を取ってしまってすみません。あなたと一緒にいたいんです。うちに帰ってきてくれませんか」 「いやじゃ…ないんですか…」 「一緒がいいんです」 嘘じゃないと信じられる力強い声に、カカシの胸にしがみついた。 口を引き結んでぼろぼろと泣きながら、大きく大きく頷いた。 カカシはイルカ宅の座布団と卓を、さっと元の位置に片付けてくれた。 伝令が届いたのは、手を繋いでカカシの家に向かっている時だった。 「五代目はオレをなんだと思っているんですかね。式を飛ばせば済むはずの伝令を、わざわざ暗部に届けさせるなんて」 カカシが呆れたような口調でぼやいた。 4日前の解術した日の事を言っているようだ。 「あの時の暗部のかたがおっしゃっていたじゃないですか。ほっといたらいつまでも解術を先延ばしにされそうだからって」 「いいじゃない。少しくらい。あんな貴重な機会、なかなかないんだから」 「受付もアカデミーも人手不足なんです。たった3週間でも、俺ひとりが抜けただけで大変だったそうですよ」 「でも! 小さいイルカ先生、めっっっちゃくちゃかわいかったんですよっ!」 力のこもったカカシの声が、浴室中に響き渡った。 ついでに、狭い浴槽で後ろからカカシに、ぎゅう、と懐かしむように抱きしめられる。 心なしか、腰に硬さと熱を感じた。 「カカシさん…。当たって…ません、か…?」 「大目に見てくださいよ。なんだかんだで1か月ぶりでしょう。こんなにいちゃいちゃできるの」 たしかに、イルカが小さくなる数日前が最後だったかもしれない。 実は密かに心配していた。 もうカカシはイルカ相手に、そういう気分にはならないのではないか、と。 「好きな子と密着してるんだから、反応しないほうがおかしいでしょ」 「俺が子どもの姿の時は、普通にお風呂に入れてくれてたじゃないですか」 「あの時は不思議と、そういうのが全然なかったんですよ。産後とか子育て中の女性が性欲薄くなるのと同じ現象ですかね」 そういうものなのだろうか。 わかるような、わからないような。 生徒相手に性欲を掻き立てられたりしないのと似たような事だろうか。 「中身がイルカ先生なら小さくてもいいかと思ってたんですよ。でも、大人に戻ったらこっちも完全に復活しちゃったみたいで」 「よかったです。安心しました」 紅が小さなイルカに色々と話してくれた理由がわかった気がした。 イルカの職場が困っているのに、世話人のカカシが元に戻す事を急いでいない所とか。 性的な欲求から目を背けているカカシの心身の健康を気遣って、とか。 「ほんと? 1か月分ご協力お願いできますか」 1か月分。 想像しただけで怯んでしまった。 でも、イルカがどんな姿になっても大切にしてくれた愛しい人の提案だ。 思い切って、ではなく、喜んで引き受ける事にした。 |