恋の味 |
自分でも信じられないが、もう20年になる。 イルカに片想いをして。 長い月日が流れるあいだに、自分は火影を経験し、イルカはアカデミーの校長になった。 過去にはイルカと、それなりにいい雰囲気になった事もあった。 恋愛経験の乏しそうなイルカなら、カカシが本気になればいつでも落とせると甘く見ていた。 それが間違いの、長患いの始まりだった。 いい雰囲気になったその日に。 本気になれば落とせると思ったあの日に。 きちんと行動を起こしていたら、今のイルカとの関係はきっと変わっていた。 火影をナルトに引き継いで以来、上忍たちから相談を受ける機会が増えた。 それは公共施設内であったり、道端であったり、飲食店であったり。 今日はたまたま馴染みの居酒屋で、1年目と2年目の若い上忍のくノ一たちと同席していた。 届いたジョッキで控えめに乾杯をしながら、ふと頭をよぎる。 所帯を持っていたら、彼女らくらいの子がいたかもしれない、と。 2人の話を聞いているフリをしながらカカシの脳裡に浮かんだのは、黒髪の子どもだった。 やんちゃな男児で、でも時々やけに大人びた言葉を使うような。 つまるところ、見た目はイルカで、中身はカカシだ。 率直に言って、あり得ない。 そんな雑念を自由に散らせるくらい、目の前に座る若い2人の話はくだらない。 最近流行っている服や化粧、気に入っているスイーツ、イケメンのアイドル。 カカシにとっては興味ゼロで、まったくもってどうでもいい内容だ。 上忍の心得やら、気の持ちようやら、将来の展望やら、相談したいと言うから時間を割く事にしたのに。 4人掛けのテーブル席が2つに、カウンター席が6つ、という広くはない店内を、ぼんやりと眺めている時だった。 テキトーに相槌を打っていたカカシの心臓が突然、どきっ、と跳ね上がった。 イルカが入店してきたのだ。 公の場以外で顔を合わせるのは何年ぶりだろう。 中忍以上が身につけるベストではなく、身頃の長い校長服姿だった。 見慣れているはずなのに、私的な時間と場所のせいか、胸の鼓動が早まったまま戻らない。 すぐにこちらに気がついたイルカは、軽く目を見開いて浅い会釈を送ってきた。 直後、店主がイルカをカウンターの空席へ促した事で、挨拶を返しそびれてしまった。 この店にはイルカとも一緒に来た事があるので、イルカも店主や常連と面識がある。 今回も左隣に座る客と顔見知りのようで、談笑している。 とても楽しそうだ。 自分もイルカと話がしたい。 イルカは届いたばかりのジョッキで左隣の客と乾杯をしている。 ぐっ、と歯を食いしばっていた。 もう許されるだろうか。 上忍でも元火影でもなく、はたけカカシという人間の気持ちを前面に出す事を。 物騒だった世界は変わり、大戦の英雄に火影を引き継ぐという大仕事も終えたのだ。 もう許してほしい。 「イルカ先生」 思いが溢れるままに声をかけ、イルカの右隣を確保した。 「カカシさん、ご無沙汰しています。お疲れさまです」 「お疲れさま。久しぶりですね」 かち、とジョッキを当て鳴らしただけで、勝手に気持ちが高揚した。 「先生はやめてください。先代の火影様に呼ばれるのはさすがに」 「じゃあ…、イルカさん」 思い切って呼び名を更新したら、さらに気持ちが昂った。 それからは夢中になって話をした。 アカデミーの事、ナルトの事、サスケの事、サクラの事、その子ども世代の事。 少し饒舌すぎたかもしれないけれど、嬉しくて平静ではいられなかった。 イルカは店特製のぬか漬けを肴に、抹茶ハイを飲んでいる。 途中でカカシのジョッキがあき、おかわりを頼んだ。 そろそろイルカのジョッキもあきそうだ。 「イルカさんは次なに飲みますか? 同じので?」 「先生、さすがにそろそろ六代目を解放してあげてください。お連れ様がいらっしゃるんで」 「あ、すみません」 店主の指摘に謝るイルカの声が、どこか他人事のように聞こえた。 だって、指摘はまったくの的外れで、だからイルカが謝る必要もない。 それなのに、それまでカカシに100%向けられていたイルカの視線が、カカシの肩を通りすぎていく。 もともとカカシがいた席のほうへ。 いやだ。 こっちを見てくれ。 自分だけを見てくれ。 他に目を向けないでくれ。 「大将、お勘定お願いします」 「え、イルカさん、もう帰るんですか? まだ1杯しか」 「六代目のご迷惑になるので。邪魔者は退散します」 イルカが、からりとした笑顔で言った。 誰の事だ、六代目って。 もし六代目火影を指すのなら、イルカを迷惑に思ったり、邪魔者だと思ったりするはずがない。 イルカを除けようとする六代目とは、どこのどいつだ。 苛立ちまじりに心の底からそう思って、辺りを見渡した。 「六代目」 「カカシ様」 後ろからかけられた甲高い2人の声が、呪いのようにカカシの耳に届いた。 違う。 自分は、はたけカカシだ。 敬われる存在じゃない。 様なんて付けられるような立派な人間じゃない。 イルカだって直前まで、カカシさん、と呼んでくれたじゃないか。 六代目なんて他人行儀な呼び方はやめてくれ。 自分はさっき初めてイルカを「さん」付けで呼んで、親しみが蘇るだけじゃなく、深まった気さえしていたのに。 「ごちそうさまでした。お先に失礼します」 勘定を済ませたイルカの会釈に、また挨拶を返しそびれているうちに、きれいに伸びた背中が清々しく出ていった。 かなしくて、動けなかった。 イルカを引きとめる言葉をかけられなかった。 迷惑や邪魔者と思った事はない、とも伝えられなかった。 最低限で、一番しなければならない事だったのに。 「大将、さすがに今のはかわいそうじゃない?」 「でもよ、あとから来た先生より、最初から一緒だったお嬢さん2人を優先すんのがスジだろ?」 イルカの左隣にいた客と店主の声が耳を素通りしていく。 若い2人には悪いが、今日はもう誰かの話を聞けるような状態ではない。 新しく届いたばかりのジョッキを、ひと息で呷った。 元の席に戻り、充分な額をテーブルに置く。 ごちそうさまでーす、と感謝の欠片もない口調で2人の甲高い声が重なった。 「わたし、六代目のこと神格視しすぎてましたー」 「カカシ様って意外とわかりやすいタイプだったんですね。校長先生の前であんなに活き活きしちゃって」 「しかも普通にヘコんでるしー」 「上忍になっても恋とかしていいんだって、なんか吹っ切れちゃいました」 「早く行かないと校長先生に追いつかなくなっちゃいますよー」 はっとした。 急に肩の力が抜けた。 ぼうっとしている場合ではなかった。 後悔を減らすために、まだできる事はある。 「ごめーんね。ありがと」 今日、この若い2人と、この店に来られてよかった。 この平和な時世に上忍にまでなった、志の高い優秀な女性たちなのだ。 終始丁寧に対応できなかった事が申し訳ないけれど、先を急ぐ。 ゆっくりしていってね、と2人に声をかけられるくらいの余裕は復活していた。 店を出て、さっと周りを見渡す。 だが、すでにイルカの姿は消えていた。 分身を四方八方に放ち、本体は真っ直ぐにイルカの家へ向かう。 しかし、その足は風船がしぼむ勢いで急速に止まった。 たぶん、今のイルカの家を、自分は知らない。 両こぶしを握り込み、きつく唇を噛んだ。 時の流れの残酷さに胸をえぐられて、顔をしかめたまま天を仰いだ。 |