新月に近い月が、雲の隙間から見え隠れしている。 建物に入られたら、あてもなく無暗矢鱈に気配を辿るのはさすがに難しい。 人家の屋根の上で立ち尽くしていると、じんわりと体温の上がる感覚があった。 分身が戻ってきたのだ。 彼らの得た情報を共有した途端、走り出した。 イルカが見つかった。 まだ屋外にいた。 向かったのは住宅街の中にある公園だった。 イルカは4つ並んだブランコの、一番端にいた。 細瓶で何かを飲んでいる。 ビールだろうか。 イルカの他には誰もいない。 驚かさないように、気配を消さずに近づいた。 「イルカさん」 「あ、カカシさん」 呼び方が戻っている事に、膝から崩れ落ちそうなほどの安堵を覚えた。 実際にくずおれる前に、ブランコを囲む低い柵のうち、イルカの横顔が正面に見える、イルカに一番近い場所に腰をかけた。 「さっきはすみませんでした」 「いいんです。気にしないでください」 まず謝ると、イルカは少し困った顔で笑った。 「サクラの助言があった事は聞いていますか?」 「え? サクラの? いえ、オレは」 「さっきいた子の片方が、今日俺の所に来たんです。仕事のあと、どうしてもあの店に来てほしいって。俺を誘ったらいいとサクラに言われたそうで」 イルカがいる時のカカシの浮かれようを若い2人に見せる、というサクラの策略に、まんまと引っかかってしまったのか。 最初のどうでもいい雑談も、イルカが来るまでの繋ぎだったのだろう。 でも、これからの里を担う若者の参考になったのなら、恥をかいた甲斐がある。 「てっきり俺に相談があるのかと思ったらカカシさんがいて、なんだ俺はカカシさんが来られなかった時用の予備の相談員だったんだなと」 イルカは気がついていないのか。 カカシがどれだけイルカに心酔していて、人目をはばからずにイルカへの好意を前面に出していたかを。 サクラがイルカを推薦したのは、カカシの反応が彼女たちの相談の役に立つと思ったからだと。 ふっ、と笑みが零れた。 なんだか懐かしい。 イルカに向けられる好意に対する、イルカ本人の感度の低さが。 「そういう所、イルカさんが前と変わっていなくて嬉しいです」 「あ、バカにしてますね」 「そんな事ないです」 たぶんイルカは、年下の若者に「すっぽかしてもいい相手」として軽く扱われたと思ってそう言ったのだろう。 もともと年下に甘いイルカは、そんな事は少しも気にしていない様子で小さく笑いながら、細瓶を傾けた。 イルカののどが、ささやかに上下する。 それだけで、おいしそうに飲んでいるように見えるのはなぜなのだろう。 「何飲んでるんですか?」 「レモンスカッシュです。久しぶりに甘酸っぱいものが飲みたくなって」 「オレも真似していいですか」 公園でふたりきり、という2次会も悪くはない。 「カカシさんはやめたほうがいいですよ。甘いの苦手でしたよね」 覚えていてくれたのか。 ほわ、と胸の奥がぬくもった感じがした。 「オレは少し変わったんです」 甘いものをいつもおいしそうに食べていたイルカと同じものが食べられるようになりたくて、無理やり舌を慣れさせたのだ。 きっと飲み物でも、その成果を発揮できる。 すぐに分身にレモンスカッシュを買いに行かせた。 自分はこの場を離れたくなくて。 「甘いもの、少しだけ食べられるようになったんです。イルカ先生を見習って」 「ここで先生を付けるなんて、六代目はいじわるな人ですね」 仕返しをされて笑い合う。 今度は六代目と言われても深刻な気持ちにはならなかった。 分身が戻ってきたので、イルカと同じレモンスカッシュの細瓶を受け取る。 栓を開け、改めて乾杯をした。 人工甘味料に舌が痺れたけれど、レモンの酸味と炭酸で後味はさっぱりとしていた。 イルカのそばで、イルカと同じものを飲みながら、他愛のない話をしている事に、心が浮き立つ。 サクラに感謝だ。 今が楽しくて、嬉しくて、幸せで、しょうがない。 「イルカさんも変わった事はあるでしょう? 家だって引っ越したんじゃないですか?」 「そうですね。さすがにこの年で独身寮には居づらくて。カカシさんだって引っ越されているでしょう?」 イルカが知っているカカシの家は、火影に就任する前の住まいだ。 そこから火影官邸へ移り、今はまた別の所で暮らしている。 察しのいいイルカなら、その過程を踏まえた上で尋ねているのだろう。 「はい。前みたいに、また家飲みしませんか。うちでも、イルカさんのおうちでも」 「いいですね」 イルカの軽やかな返事に、ごく、とのどが鳴りそうになった。 話が願っていた方向に流れてくれて、らしくもなく緊張してきた。 いや、こんな大事な場面なら誰だって緊張するか。 再び早鐘を打ち始めた心臓の音が耳につく。 まだ尚早だろう。 2次会は始まったばかりで、瓶の中身もほとんどが残っている。 わかっているのだ。 でも、我慢できない。 「これから、うちで、飲み直し、ません、か…」 内心を隠しきれず、声が硬くなった。 忍びとしては熟錬と言われても、人としてはまだまだ未熟なのだと痛感する。 口調を変えたカカシを不審に思ったのか、イルカがこちらを真っ直ぐに見据えてきた。 イルカから発される言葉は1音も逃さないつもりで、聴覚を研ぎ澄ます。 ほんのわずかな沈黙すら、もどかしい。 しかし、イルカは何も言わずに正面に向き直った。 視線が遠くを見ている。 それだけで冷や汗が出そうだった。 イルカの目には今、誰が映っているのだろう。 このまま、はぐらかされてしまうのだろうか。 テキトーな理由をつけて断られてしまうのだろうか。 それならいつにしますか、と提案したら、しつこい奴だと思われてしまうだろうか。 「…お酒じゃなくても、いいですか」 どきん、と一際大きく心臓が跳ねた。 予想外の返答だった。 飲酒を目的とせずに訪問してくれるという事は、すべて合意の上だと思っていい、という事にならないか。 「もちろん大歓迎です」 期待ばかりが膨らんでしまう。 イルカは1杯、自分も2杯しか飲んでいないのだ。 酔いは言い訳にはできない。 というか、ここまできたらもう言い訳をするつもりはない。 招いたからには、お茶と会話だけでイルカを帰らせるわけにはいかない。 自分たちは、もう充分に大人なのだ。 「俺にとって…レモンスカッシュの甘酸っぱさは、恋の味なんですよ」 ひゅ、と息を呑んだ。 イルカの恋の味。 店にカカシを置き去りにしてから、夜の公園でひとり、味わっていたものが。 それって。 また胸が高鳴ってきて、ほのかに頬が熱を帯びてくる。 勘違いじゃないよな。 自分の一方的な思い込みじゃないよな。 イルカの発言に翻弄されているとわかっても、自分ではどうにもできない。 だって、20年分の思いが発酵しているのだ。 頭の中には、たったひとつの事しかない。 イルカ、イルカ、イルカ。 ああ、もう。 「ダメだ。好きです。イルカさんが好きです」 滾る思いを止められなかった。 好き、すごい好き、ずっと好き。 一線を越えたら、次から次へと迸ってしまいそうになる。 いくら好意への感度が低いイルカでも、ここまで言えばカカシの気持ちは伝わったはずだ。 イルカの気持ちが知りたい。 噛みつきそうな勢いを必死に抑えて、じっと横顔を見つめていると、イルカが両手で顔を覆った。 隠しきれていない耳が赤く染まっている。 熟した果実のようで、齧りつきたいくらいだった。 「カカシさん…。もっと火影経験者としての自覚を持ってください…。こんな屋外の…誰が聞いているかわからない場所で…。いい大人なんだから、もっと遠回しな言い方だってあったでしょう…」 もしかして、叱られているのだろうか。 やばい、嬉しい。 頬の緩みが押さえられない。 ベテランの上忍で元火影であるカカシを叱ってくれる人は、かなり少ない。 こんな時まで先生なイルカに惚れ直してしまう。 本当に、このいとしい人は、どこまでカカシを喜ばせたら気が済むのだろう。 「すいません。イルカさんの前だと自分をうまく制御できなくて」 「どこにゴシップ記者が潜んでいるかわからないんですよ…。しかも俺だけ夢見がちなイタイ奴みたいな遠回しな言い方しちゃったじゃないですか…。恥ずかしい…」 夢見がち、というのは、恋の味、という部分だろうか。 自分にとっては背中を押された言葉というか、火に油を注がれた言葉というか。 イルカだけ遠回し、というのは、カカシは真っ直ぐに好意を伝えたけれどイルカは遠回しに伝えていた、という意味ではないだろうか。 だとしたら。 「あの…、オレたち両想いって事でいいんですかね?」 「こんな場所では明言しかねます」 それってほとんど答えじゃないのか。 でも、イルカの考えを尊重しよう。 「そうでしたね。失礼しました。早く行きましょう」 細瓶を地面に置き、イルカの手を取ろうとしたら逃げられた。 仕方なく、正面から掬い上げるようにして抱き上げる。 かすかな悲鳴を噛みころしたイルカの足元で、とん、と瓶の落ちる音がした。 瞬身でカカシの家へと運ぶ。 まだ一度もイルカが来た事のない家。 まだ誰も入れた事のない家。 到着して玄関にイルカを下ろしても、抱きしめる手は離さなかった。 イルカを思う気持ちは20年経ってもまったく変わっていない。 むしろ膨張している。 たぶんそれは、この先50年後も100年後も変わらないのだろう。 「イルカさん」 口布を下げ、鼻先が触れそうな距離から返事を催促した。 もう、キスの準備はできている。 |