心の声が聞こえたら |
まだ入学式が終わってそれほど経っていないというのに、その日は初夏のように暑い日曜だった。 先週カカシと顔を合わせた時に、共に休みだという事がわかり、それなら昼間から飲みに行こうという事になった。 待ち合わせは午前11時。 早く飲み始めて、翌日に残さないようにしたいのだろう。 お互いの休日に予定を合わせて会う事も、明るいうちから2人で飲む事も初めてだった。 実はひそかに、約束を思い出すたびにドキドキしていた。 カカシはイルカがそこまで意識しているなんて夢にも思っていないだろう。 日頃からカカシを含めて誰とでも平等に接するようにしているのだ。 2人で飲みに行く間柄でも、特別親しいわけではないという事を忘れてはいけない。 「モテる」を体現する人と関わっていたいと思ったら、適度な距離感を保っていないといけない。 会議でも飲み会でも、集まりが終わったあとにカカシと少し話したいと思っても、大抵は隣に女性がいた。 カカシと交流を持ちたい女性の気持ちはわかるし、いい雰囲気の所を邪魔したら申し訳ないので、カカシに関わらずに退席してきた。 好きになりかけているという自覚はある。 でもまだ気になる人、というくらいで、たぶん後戻りはできる。 まったく見込みがなくても、傷は深くはならない。 そのくらいの気構えで、約束の15分ほど早めに着くように待ち合わせ場所へと向かった。 カカシは5分前に来た。 子どもたちの言い分と違って、けっこうカカシは時間を守る人だ。 「すみません、イルカ先生」 開口一番に謝られた。 すぐに、これは急に仕事が入ったな、と察した。 それでもカカシが言いやすいように、事情を尋ねる。 「どうしました?」 「急なんですけど、これからプレゼントを買いに行くのに付き合ってくれませんか」 「え…?」 「昼間から飲もうって誘ったのはオレなのに、すみません」 意外すぎて、少し混乱していた。 仕事じゃなかったし。 しかもプレゼントって。 「あの、カカシさんの買い物が終わるまで、俺どこかで待ってましょうか? それとも今日はナシに…」 「できれば一緒に来てほしいんです。何を選んだらいいのか、どうにも見当がつかなくて」 「俺でお力になれるかどうか…」 渡す相手次第では、手伝えるかもしれないけれど。 正直、自信はない。 「…差し支えなければ、どんなかたへの贈りものか伺ってもいいですか…?」 カカシが不自然に黙り込んだのを見て、しまった、と思った。 答えにくい相手なのだ。 咄嗟に、華やかで豊かな色香を放つ女性の姿が頭をよぎった。 その次は、清楚で知的な女性が浮かんだ。 どちらにしても、どちらでもなくても、イルカでは役に立たないだろう。 一度ぐっ、と奥歯を噛みしめて、ゆっくりと口を開いた。 「すみません。他のかたを頼られたほうがいいと思いま…」 「イルカ先生にお願いしたいんです。大切な人へのプレゼントなんです」 きっぱり断ろうとした所を、強めに遮られた。 大切な人。 カカシの口からそう聞いただけで、胸がずきっとした。 言いようのない重苦しさが、じわじわと全身に広がっていく。 こんな状態では、とてもじゃないけれどカカシの大切な人を思いながら誠心誠意品物を探すなんて、できそうにない。 考えただけでも泣きそうになる。 いつの間に、こんなにカカシを好きになっていたのだろう。 「お願いします。どうしてもイルカ先生に同行してほしいんです」 「でも…」 「いいとか悪いとかイマイチとか、とにかくイルカ先生の意見を聞かせてくれませんか」 「そんなこと俺には…」 「土下座したら付いてきてくれますか」 「…っ」 カカシが膝を畳もうとする動きを見せたので、慌てて肩を押さえた。 「や、やめてくださいっ、行きますからっ」 そう言う他に、何か方法があったのだろうか。 * * * * * カカシのプレゼント選びに同行してしばらく経った頃、珍しく外務に出る事になった。 届け物の任務で、難易度は低かった。 特にトラブルもなく、無事に里に帰ってきたつもりだったのに。 街に入った途端、自分の異変に気がついた。 すぐに綱手の元へ駆け込むと、ひとまず特殊な療養施設に入る事になった。 建物は地下深くにあり、外部と干渉しにくい造りになっている。 病室に似た無機質な四角い個室で、連絡は特殊な通信機器を使うしかない。 食事は部屋にある冷凍食品や即席飯をテキトーに摂れ、との事だった。 シャワーやトイレもある。 綱手によると、里の空気を吸っていれば数日で自然に元に戻れるそうだ。 任務帰りにイルカが通りかかった谷に原因があるとの事だった。 そこで発生する濃霧には不思議なチャクラが宿っていて、吸い込んだ量や体質によっては、稀に症状が現れるという。 過去にも同じ症例が複数あり、全員もれなく回復した、との綱手の言葉には少しほっとした。 部屋にはテレビやラジオ、書籍も充実しているので、わりと快適に過ごせている。 入所3日目の夜、シャワーを終えて髪を乾かそうとしていた時だった。 通信機器に着信があった。 『イルカ、気をつけろ。たぶんカカシがそっちに向かってる』 事務的な綱手の声だった。 綱手の後ろからはバタバタと慌しそうな物音がしていたが、すぐに通信は切れた。 続くようにして、別の声が聞こえてくる。 (イルカ先生! イルカ先生! イルカ先生!) カカシだ。 どんどん声が大きくなっている。 本当にこちらに近づいているようだ。 (面会謝絶ってなんだよ) (心配するなって言われたって無理に決まってんでしょうが) (せっかく誕生日プレゼント選んでもらったのに) あのプレゼントは誰かの誕生日用だったのか。 以前、恋人はいないと言っていたから、その人が今のカカシの意中の相手なのだろう。 カカシに告白されて、断る女性はいない。 小康状態を保っていた胸のざわめきが、前回以上の重苦しさでぶり返してくる。 顔が強張り、妙に力んだこぶしが震え出す。 (あのとき大切な人って言ったからバレたかな) (でもイルカ先生って鈍いトコあるから気づいてないかな) (でもプレゼント選びの手がかり聞かれた時に、子ども好きとか、好物はラーメンとか答えたんだから、さすがに) (そういえば、ご当地ラーメンの生食セットはどうかって提案したら困ってたな) (冷蔵庫がいっぱいだったら迷惑になるって言ってたけど、たぶんあれイルカ先生んちの事なんだろうな) その会話は覚えている。 でも、カカシにイルカ自身の事だと見抜かれているとは思わなかった。 そこまで見抜いているのなら、あの時イルカがずっと悲しみをこらえていた事まで見抜いているのだろうか。 それはないか。 変な期待はしないほうがいい。 カカシの心の声の口調は、どことなく弾んでいた。 聞いているイルカの気持ちとは反対に。 (じゃあカップ麺は? って聞いたら、かさばるからやめたほうがいいとか言うしさ) (家にストックが溢れてたら大変って事なんだろうけど、それだってきっと) (あ、消費するの手伝うから家に上がらせて、っていう手はアリだな) (しっかりしてる子の抜けてる所って、なんであんなにかわいいんだろう) (駄目だ、思い出すとニヤける) かなり鮮明に聞こえた。 もうすぐそこまで来ているのだ。 カカシが心を弾ませている相手は誰なのだろう。 途中までは確かにイルカの話だったけれど、後半は明らかに別の人の話だった。 自分は抜けている所はあるけれど、しっかりしてはいないし、かわいくもない。 耳を塞げば済む話なら、とっくにそうしている。 綱手から説明されなかったのだろうか。 知られたくない内心を知られてしまう症状だから近づくな、と。 自分も、カカシがかわいいと思っている子の話や、家に上がりたいと思っている相手の話なんて聞きたくはなかった。 もうプレゼントは渡したのだろうか。 知ってしまったばかりに、考えずにはいられない。 結局はイルカがそろそろ買い替えようと思っていたバスタオルになってしまった。 しかも、選ぶ際に足を引っ張った。 肌触りと使い心地から、カカシは厚手を好んでいたのに。 洗濯のしやすさで薄手を使っている、とイルカが余計な口を出したばかりに薄いほうに決まってしまった。 色違いをペアで買う事にも迷いがなかったので、近いうちに一緒に使う可能性がある、という事なのだろう。 楽しい事じゃないのに、もう考えたくない事なのに、カカシの事で頭がいっぱいになっている。 急にドアをノックする音がした。 気配はなくても、カカシの心の声だけは聞こえる。 (イルカ先生ほんとに大丈夫かな) (もう寝てたりするのかな) (そうしたら、こっそり寝顔だけ見て帰ろう) (ひと目でも無事を確認できさえすれば) 「イルカ先生…?」 実際の声のほうが、心の声よりだいぶ小さかった。 身近な人の秘密を知ってしまう罪悪感から、せめて少しでもカカシから離れようと、ドアから遠い部屋の隅へと移動する。 「カカシさん、すぐに帰ってください」 (あ、起きてた) (えっ、オレそんなに嫌われてた?) (顔も見たくないって事?) (声を聞くだけでもウザい?) (そうだったらヘコむわ…) (やばい泣きそう) 「違いますっ、あのっ、俺の症状、綱手様から聞いていませんか」 「聞きました。サトリの能力が備わってるって」 だったら、どうして。 今カカシがイルカに近づいて得になる事なんて、ひとつもない。 1秒でも早く、無心で離れてほしい。 カカシほどの上忍が本気になれば、できない事はないのではないのか。 これ以上、カカシが隠している内心を覗くのは嫌なのだ。 もっと知りたくない事柄が必ず出てくる。 イルカに対する気持ちだとか。 思い入れの浅さだとか。 お願いだから、もう傷口を広げないでほしい。 |