さみしくて泣くなんて、もう子どもじゃないんだから、とは思うのに涙はなかなか止まってくれない。 情けなくて、ふっと笑みが零れても、やっぱり涙は止まらない。 逆にぼろぼろと勢いを増していく。 せめて嗚咽だけは我慢していたら、わずかに部屋の空気が動いた感じがした。 帰ってきた。 一瞬カカシかと期待してしまったけれど、ヤマトが戻ってきただけだろう。 テーブルに突っ伏したまま、泣いていた事がバレないようにそっと浴衣の袖に涙を吸わせる。 すると、さら、と優しく頭を撫でられた。 ぱっ、と上体を起こす。 振り返ると、任務服姿のカカシがこちらに背中を向けて立っていた。 茶器一式の置いてある冷蔵庫の前でコーヒーを作っている。 「カカシさんっ」 「ごめん、起こしちゃったね」 「起きてましたっ」 すぐに立ち上がって、カカシの背中に抱きついた。 ぴたりと密着して、カカシの首の付け根に頬を押し当てる。 「お疲れさまです…。ずっと待っていたんです…」 「遅くなってごめんね」 「…温泉は? もう入りました…?」 「まだです。着いたばかりなので。綱手様に挨拶に行っただけで」 「宴会前にヤマトさんと入ったんですけど、なかなかよかったですよ」 「へぇー…。あいつと行ったんだ」 「お疲れ様です」 今、カカシの声を遮るようにヤマトの声が聞こえた気がしたけれど、自分にはカカシの体温を感じ取る事のほうが重要なので構っていられなかった。 カカシの腹部に回していた腕に、さらに力を込める。 「…こんな酔ってる人に、まだ飲ませる気?」 カカシはどこに向かって話しているのだろう。 イルカではなさそうなのが悔しいけれど、そばでカカシの声が聞けるのなら今はそれでいい。 「これは宴会不参加者用です。お弁当と、もれなく付属するお酒だそうです」 「…そ。ありがと。イルカ先生、もう布団行きましょ」 「や…、です。まだ…シない、です…」 「っ…」 息を飲んだような物音がした。 カカシより、もっと距離のある場所から。 でも、どこから聞こえたのかははっきりしなかった。 そんな音より、カカシの声が聞きたい。 「こんな話、人に聞かれちゃってもいいの?」 「いいんです…」 カカシだけなら。 カカシしかいないから。 「温泉…カカシさんと一緒に…入るんれす…」 「わかりました、わかりました。でも温泉の前に少し座って休みませんか」 「あ…。すいませ…。カカシさん任務終わったばかりなのに…」 「オレの事はいいから。イルカ先生、だいぶ酔ってるでしょ。とりあえず水、飲みましょう?」 名残惜しかったけれど、カカシの背中から離れた。 カップを持って振り返ったカカシと目が合う。 薄く入った、目尻のしわ。 嬉しくて、抑えらなくて、正面から抱きついていた。 「すごく会いたかったんです…」 「オレも会いたかったよ」 「待ってるあいだ…ずっとカカシさんの事を考えていて…」 「うん」 「会ったら…キスしようって…。キス、してもいいですか…」 「いいの? 誰かに見られても」 今なら誰も見ていない。 だって、ここには自分とカカシしかいない。 「したいんです…」 「しょうがないなぁ」 言いながらカカシがさらに目元を和らげた。 焦らすみたいにゆっくりと口布を下ろしていく。 その視線が、ふと横へ流れた。 「この人かわいいでしょ」 どこに向かって話しているのだ。 今は自分だけを見てほしいのに。 キスだって早くしたいのに。 そんな事しか考えられなくて、たくさんあったはずの言いたかった事は全部どこかへ行ってしまった。 「普段は慎ましく寄り添ってくれる人が、ときどき大胆になるとか、たまんないよね」 「カカシさん…」 口布が下がりきる前、まだ顎に引っかかっている状態で我慢できなくなった。 カカシの唇を迎えに行く。 そっと触れた唇は、まだ外気の冷たさを纏っていた。 このまま唇を重ねていたら、温泉と酔いで上がったこちらの体温を少しはカカシに移せるだろうか。 というか、それを言い訳にこのまま唇を触れ合わせていたい。 涙が出るほど膨らんでいたさみしさが、どんどん平穏に戻っていく。 「…今夜は、戻らない、ので、お2人で、ごゆっくりなさって、くだ、さい」 突然後ろから聞こえたヤマトの辿々しい声に、慌ててカカシから離れた。 振り返れないまま固まる。 いつの間に戻っていたのだ。 酔った中忍の自分ではヤマトの存在を感知できなくても、カカシなら気がつかないはずはないのに。 気がついたのなら、キスやハグを止めてくれたらいいのに。 戸を静かに開け閉めする音がして、ヤマトが出て行ったのがわかった。 急速に酔いが醒めてくる。 「どうして教えてくれなかったんですか…」 「言ったじゃない。2回も。聞かれてもいいか、見られてもいいか、って」 「だって、それは…」 カカシの声しか聞いていなかったから。 カカシしか見ていなかったから。 ヤマトがいるなんて考えられなかったから。 どこから見られていたのだろう。 いや、もうそれは考えたくない。 どっちみち、抱きついてキスしている姿は見られてしまったのだ。 「ふふ。イルカ先生、オレの事でいっぱいになってましたもんねぇ」 その通りだ。 でもそれなら、もっと明確にヤマトがいると喚起してほしかった。 少し知っている相手の、こんなだらしない姿なんて絶対に見たくないだろう。 どんどん頭が冷えてきて、ようやくヤマトがいたと思われるほうを振り返った。 その先に見えた隣の部屋から、布団が1組消えていた。 この部屋に泊まる気はない、という事だろうか。 そんなの、申し訳なさすぎる。 「ヤマトさんを探してきます…。謝らないと…」 「大丈夫。駐車場に木遁の小屋があったから。術で隠してあったけど」 はっとした。 たしかに、旅館に着くなり広場で印を組んでいた。 カカシの話を聞いて舞い上がってしまって有耶無耶になっていたけれど、あの時、イルカの倫理観が頼り、とも言っていた。 それなのに。 「せっかくの旅館が…」 「気にしないでください。あいつはあらかじめ綱手様から言われてたんです。客室にいられなくなった場合を想定しておけ、と」 「え…」 どういう事だ。 まさか綱手まで、カカシとイルカの関係を知っているのか。 「1週間前までっていう変更期限が切れてから部屋割りを確認したあいつが悪いんです。出立前に綱手様の所へ行ったら、ちょうどあいつがいて」 「あの…、綱手さまも…俺たちの事…」 「もちろん。五代目就任の時に、あなたやオレに余計な紹介を寄越さないよう頼みに行きましたから」 こういう関係になる前じゃないか。 しかも噂で耳にしたとかではなく、カカシ本人が伝えていたなんて。 「あいつからは割増料金を取ってもいいくらいでしょ。ただでイルカ先生のかわいい姿を見たんだから」 「そんな…。ヤマトさんに嫌な思いを…」 「いや、あの様子だと、あいつの中の新しい扉を開けちゃったんじゃないですか。きっと今頃は悶々としてますよ。もうあいつはイルカ先生と一緒には風呂に入れないと思う」 カカシが冗談でこんな事を言うだろうか。 どちらにしても、これからはある程度ヤマトから距離を取られる事になるかもしれない。 とにかくお詫びをしないと。 しっかりと謝罪を。 がくりと首が垂れ下がる。 「ああ…」 「ほんとに気にしないで。イルカ先生は何も悪くないから。それより、せっかく2人きりになったんですよ。温泉旅館で」 「あ…、これから入りに行きますか…?」 顔を上げると、カカシが布団とイルカを交互に見つめた。 「イルカ先生はどっちがいい?」 「…温泉、がいいです。疲れて帰ってくるカカシさんの背中を流そうと思っていたんです。つかりながら肩を揉んであげたいって…」 「ありがと」 ふわ、とカカシが微笑んだ。 また、目尻の薄いしわ。 嬉しくて気持ちが昂ってきて、口元がむずむずしてくる。 今はもう完全に2人きりなのだ。 「もう一回…キス、してもいいですか…」 ぎら、とカカシの瞳に欲が宿ったように見えた瞬間、今度は焦らされる事なく唇が重なった。 カカシが煽りたてるように舌を絡めてくる。 ごめんなさい。 今度おいしいくるみパンを贈ります。 意識がカカシで満たされる前に、心の中で呟いた。 |