木の葉学園は武道の名門校だ。 イルカはその中等部の2年生で、1年生の時から柔道部に所属している。 中学と高校の一貫校なので、練習は毎回、高等部の先輩たちと合同だった。 自分の倍ぐらいの体格の先輩たちとの練習は厳しいけど、その分やり甲斐はあった。 でも最近、高等部の先輩たちに隙ができる事が多くて、後輩のイルカたちは練習に集中できなくて困っている。 原因はわかっていた。 見学する女子生徒が増えたから。 しかも柔道部の見学者ではなく、隣の剣道部の見学者が増えたからだった。 1階の柔道場と剣道場は、板戸で仕切られているだけで、2階の客席部分は繋がっている。 だから客席で剣道部の練習を見ている女子たちが騒げば、簡単に柔道場まで響いてくる。 座ったり立ったりと、短いスカートが揺れるたびに、女子に興味津々の年頃の先輩たちはすぐに影響された。 柔道部にも女子部員はいるのに、そちらには興味がないらしい。 ある先輩に聞いたら、剣道部を見学する女子たちは尋常じゃなくレベルが高いのだそうだ。 女子の事よりも柔道を上達する事で頭がいっぱいのイルカにはよくわからないのだけど。 でも、女子たちが特定の剣道部員に熱狂する気持ちも理解できる。 すごい部員が入ったと聞いて見に行ったら、本当にすごかった。 竹刀を構える姿は誰よりも美しく、無駄な動きも一切なくて、立会いが始まれば敵なし。 かっこいいの一言に尽きた。 今年の4月にいきなり高等部に転校してきて、もう引退する学年なのに、そんな事には関係なく毎日のように稽古に励んでいる。 きっと早々に進路が決まって、自己鍛錬も手を抜かないような尊敬できる人なのだろう。 この時は何の疑いもなく、はたけカカシの事をそういう男だと信じ込んでいた。 * * * * * 運動部は上下関係が厳しい。 よほど理不尽な事でない限り、先輩の言う事には逆らえない。 「オレのこと、知ってる?」 ヤマトに引っ張られて、人けのない渡り廊下に連れて行かれ、そこで待っていた人に尋ねられた。 イルカは学園指定の学ランを着ているが、その人は濃紺のブレザーを着ていた。 体格から見て高等部の人で、制服が違うから転校生なのだろう。 イルカが首を傾げると、その人は小さな溜め息を吐いてから名を名乗った。 「剣道部のはたけカカシ」 「あ…」 名前を聞くまで、全く誰だかわからなかった。 だって目の前の人は、髪はぼさぼさだし、髪色は派手だし、猫背だし、何よりも無気力そうだ。 イルカが知っているカカシは、背筋が伸びていて、とても近付けないような凛とした雰囲気が漂っている人。 こんなに頼りなさそうな姿ではないし、こんなに軽薄そうでもない。 防具と袴を脱いだら、こんなにも変わるものなのだろうか。 剣道部のヤマトに連れて来られたから、彼がカカシだという事に嘘はないのだろうけど。 終礼の直後、慌ててイルカを引き留めに来たぐらいだ。 カカシの言う事を聞かないと、稽古で徹底的にしごかれる事になっていたのかもしれない。 「ありがと、ヤマト。もう帰っていいよ」 「はい!失礼します!」 威勢の良い返事をして、ヤマトが一目散に逃げて行く。 こんな所に一人で取り残されて、急に心細くなった。 カカシに恨まれるような事をした覚えはないけど、ここで殴られるのだろうか。 いや、剣道部だから竹刀で突かれたりするのだろうか。 歯を食いしばって体を強張らせると、目に薄っすらと涙の膜が張った。 「うみの君さぁ…」 やっぱりイルカの名前は知られていた。 きっと何か気に障るような事をしてしまったのだ。 あとでこっそり部室に忍び込んで、救急箱を拝借しなければならない。 先輩や同級生が、何度かそうしているのを見た事がある。 カカシが言葉を続けようと口を開いたので、いよいよ痛みを受ける覚悟を固めた。 「水族館って興味ある?」 「え?…ええっ?…あの…?…水族館…?です、か…?」 「うん。タダ券があるんだけど、今度の日曜に一緒にどうかなと思って」 無意識に握っていた拳から力を抜くと、張り詰めていた筋肉が一気に弛緩した。 先輩に呼び出されるのは初めてだったから、思った以上に緊張していたようだ。 立ちくらみがして、足元がふらついた。 よろけた所に、カカシが手を差し伸べてくれる。 「す、すいません」 支えられた腕の逞しさに目を見張る。 外見は細身なのに、この腕っ節。 やはり、この人がはたけカカシ本人なのだ。 「すいません、俺…。…水族館って行ったことがなくて…」 正直に話して誰か他の人を誘ってもらおうとした。 だって、秘かに憧れていた人との外出なんて考えられない。 「じゃあ行ってみようよ。日曜は大丈夫?」 しかし、カカシには一切それが伝わらず、改めて日程まで確認される事になってしまった。 「ええっと…日曜は…」 今度の日曜は、良くも悪くも練習や大会は入っていない。 「部活も休みでしょ。時間は10時でいい?駅で待ち合わせね」 部の活動日は柔道場の前に貼り出されていて誰でも見る事ができるから、カカシがそれを知っていても不思議ではない。 「これ、渡しとくね」 とうとう入場券まで渡された。 一度も了承していないのに、話がどんどん進んでいく。 カカシとはそこで別れ、イルカは荷物を取りに教室へ戻った。 地に足が付かないような感覚のまま家に帰って入場券を確かめると、そこで初めて2枚渡されていた事に気が付いた。 カカシは間違って自分の分の入場券までイルカに渡してしまったのだ。 返したくても、上級生の教室には怖くて行けないし、部活の後も中等部の生徒は道場を掃除してから帰るからカカシとは時間が合わない。 これでもう日曜に待ち合わせ場所に行かない訳にはいかなくなった。 どうしようという言葉が頭の中をぐるぐると回る。 イルカはしばらくの間、勉強机に突っ伏して途方に暮れていた。 * * * * * カカシと約束をした前日。 土曜日といっても、午後から部活が入っている。 学校が休日の時は、1人の先生が柔道部と剣道部の両方を監督するので、練習が午前と午後に分けられる。 今日は午前が剣道部で、午後が柔道部の日だった。 少し早めに家を出て学園へ向かって歩いていると、交差点の向かい側を一組の男女が横切って行った。 狭い道なので、男女の会話がイルカの耳にも入ってくる。 「急に行くなんて言い出して、カカシって水族館が好きだったのー?」 男に腕を絡めている女の子が、拗ねたような声で尋ねた。 知っている名前が聞こえたので、つい二人の方を注視してしまう。 「別に」 「だよねー。あんなの子ども騙しだもんねー。でも今日はカカシのために付き合ってあげるぅ」 駅の方へ向かった二人の会話は、それ以上聞き取る事ができなかった。 でも、それで充分だった。 複数の罪悪感が胸の奥から次々と湧き上がる。 カップルの会話を盗み聞きした事とか。 尊敬する先輩が女の人と歩いている場面を目撃してしまった事とか。 水族館が好きでもないのに、イルカを誘ってくれた事とか。 もし明日も行くなら、カカシは二日連続で好きでもない水族館へ行かなければならないという事とか。 イルカにも楽しみにしている気持ちがあったので、それさえも申し訳なく思えてくる。 今、入場券を持っていれば、カカシの後を追って返却できたけど、あいにく失くさないようにと家に置いてきてしまった。 こうなったら明日、待ち合わせ場所にカカシが来たら、すぐに入場券を返却しよう。 何事もなかったかのように振る舞えるほど肝は据わっていない。 肩を落としてとぼとぼと歩いていると、柔道部の同級生に後ろから声を掛けられた。 「おはよ、イルカ!なぁなぁ!オレ今、はたけ先輩が彼女と歩いてるの見ちゃったよ!」 この同級生はイルカと違って電車通学をしているから、その道すがらカカシを見掛けたのだろう。 「彼女チョーかわいかった!ってか、なんかエロい感じだった!」 「へえ…」 カカシに気を取られて、女の人まで見ている余裕はなかった。 興奮気味に話す同級生は、学校に着いてからもカカシの事を色々な相手に言い回っていた。 それが先生の耳にまで伝わり、先生が呆れたような声で呟いたのが聞こえてきた。 「ったく。部活サボってデートなんて生意気なんだよ」 先生は苦笑しながら言っていたが、イルカにはショックな言葉だった。 尊敬する先輩が、練習よりも女の人を選んだなんて。 イルカの思い描いていたカカシの人物像が、粉々に打ち砕かれた瞬間だった。 map ss top count
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