イルカの母校であるコノハ高校で2週間の教育実習が始まった。 1日目の今日は、6時間目までに6クラスの授業を見学した。 どのクラスにも、授業前の挨拶でイルカが必ず伝えてきた事がある。 それは、できるだけ生徒たちと交流を持ちたい、という事だ。 でもまさか、その1日目からイルカを訪ねて来てくれる生徒がいるとは思わなかった。 「イルカ先生」 廊下からイルカを呼ぶのは、かなり明るい色の頭髪をした、背の高い男子生徒だった。 こんなに目立つ生徒なら忘れるはずがないのに、どの学年のどのクラスの生徒だったか思い出せなかった。 「えーと…ごめん、何年何組の何くんですか?」 立ち上がりながら、大げさすぎない丁寧語で応対する。 実習生といっても生徒から見れば教師なので、言葉遣いには気を付けるようにと指導教員から助言を受けていた。 「3年A組、はたけカカシです」 そう言いながら、カカシが進路指導室に入って来る。 進路指導室は、実習期間中だけは実習生の控え室としても使われていた。 隣が職員室なので、生徒と何かあっても、すぐに教師陣に手助けを求められる場所にある。 「どうぞ」 イルカの向かい側の空席を差して、座るように促した。 3年A組にはまだ行っていないが、今日の全校朝礼で挨拶をしたので、授業見学をしていないクラスの生徒がイルカの事を知っていても不思議ではない。 手元に紙とペンを引き寄せて、カカシの話を聞く準備をする。 実習生は現役の教師よりも生徒と年齢が近いので、学業から恋愛まで様々な相談を持ち掛けられる場合があると先輩たちから聞いていた。 カカシは席に着くと、急に真っ赤に染まった顔をイルカに向けて、唐突に口を開いた。 「先生、オレのこと覚えてる?」 どきっとした。 なんて聞き方をしてくる生徒だ。 まるで百戦錬磨のお姐さんのような。 「…ご、ごめん。どこかで会いましたか?」 動揺を悟られないように、できるだけ冷静にと意識して聞き返す。 するとカカシは、がっくりと顔を俯かせて、あからさまに落胆の様相を呈してしまった。 「…イルカ先生が焼いたサンマがおいしくて、オレ2回も買いに行ったんですよ」 それを聞いて、先月の大学祭の事を思い出した。 イルカが所属している落語研究会の出し物として、旬の秋刀魚を塩焼きにして屋台で販売していたのだ。 「ホントは3回行ったけど、3回目は他の人に代わってたから買わなかった」 焼き魚を扱う屋台は珍しくて繁盛していたから、さすがにお客さん全員の顔までは覚えていられなかった。 「そうだったんですか。ありがとう、覚えていてくれて」 何気なくお礼を言うと、カカシがゆっくりと顔を上げた。 表情が一変して明るくなっている。 この年齢にしては珍しく、捻くれた所がなくて、素直に感情表現ができる生徒のようだ。 「サンマ食べたの、あの時が初めてで…。オレ、あれから人生が変わっちゃった」 たかが秋刀魚で随分と大げさな事を言うものだ。 しかも、直視するのに苦労するほど眩しい笑顔を添えて。 高校生というのは、こんなにもきらきらと輝いている年頃だっただろうか。 「好物がサンマの塩焼きになったし、新しい目標も出来たんです」 「お、カカシ。丁度良かった。少し話があるんだが」 そのとき入って来たのは、生徒の進路指導と実習生の指導教員を務めている山中いのいち先生だった。 「あ、オレもう帰らなきゃ。イルカ先生またね!」 カカシがわざとらしく腕時計に目を遣り、慌てて駆け出した。 いのいちの脇を器用にすり抜けて、その腕に捕まる事なく進路指導室を出て行く。 「うみの君ってカカシと知り合いだったのか?」 カカシが走って行った廊下に視線を向けたまま、いのいちが尋ねてきた。 「いえ、うちの大学の学祭に来た時に、彼が僕を見かけたそうで」 「一楽大学、か…」 いのいちが、どこか含みのある言い方でイルカの所属する大学名を呟いた。 別に卑下する訳ではないが、イルカが在籍する一楽大学は設備の古い私立大で、授業料が安い代わりに知名度も難易度も二流か三流だ。 「よし、じゃあ明日の日程について説明しようか」 何事もなかったかのように、いのいちがこちらに顔を向けた。 大きな体躯を揺らして、さきほどまでカカシが座っていた席にやって来る。 使われないかと思われた紙とペンに、ようやく出番が回ってきたようだった。 * * * * * 教育実習2日目の1時間目はカカシのクラスでの授業見学だった。 始まる前に短い挨拶をさせてもらってから、初日と同様に教室の一番後ろに下がる。 カカシは窓側の列の一番後ろの席におり、背筋を伸ばして真面目に授業を受けている。 しかし、クラス全体の雰囲気でいうと、そわそわしていて、まるで落ち着きがなかった。 教師が板書で生徒に背を向けているあいだに、ちらちらと後ろを振り返る生徒が非常に多い。 受験を控えている3年生がこんな状態で大丈夫なのだろうか。 しかも、生徒たちの視線を集めているのは、教育実習生のイルカではなく、同級生のカカシなのだ。 3年間一度もクラス替えのないコノハ高校で、3年目の同級生同士なのに。 もしかしてカカシは転校生で、まだクラスに馴染んでいないのだろうか。 それとも、実はカカシがいじめに遭っているとか。 そうやって色々な事を考えていたら、1時間目の見学はあっという間に終わってしまった。 この件は、あとでいのいちに尋ねてみよう。 そう思ってイルカが教室を出ようとすると、突然がたがたと騒々しい音がして、ぱっと振り返った。 大勢の生徒がカカシを取り囲んでいる。 「おいカカシ!遅刻しないなんて今日はどうしたんだよ!」 「お前がまともに授業受けてんの、初めてじゃね?」 「何かのタタリ?ワザワイの前触れ?」 生徒たちが口々に、カカシを冷やかすような言葉を投げ付けた。 「別に。普通だろ」 そんな生徒たちに対して素っ気ない返事をしたカカシが、ちらりとこちらを見たような気がしたけれど定かではない。 生徒たちがまた、わいわいと騒ぎ出す。 カカシを中心として、教室中に明るい声が広がっていく。 どうやら、いじめというのはイルカの杞憂だったようだ。 ほっと一安心して向き直り、軽い足取りで教室を後にした。 本日最後になる6時間目の授業見学を終えて進路指導室に戻ると、衝立の奥に先客が来ていた。 いのいちが生徒に対して進路指導を行っている。 指導の邪魔をしないように、イルカはできるだけ静かに自分の席に着いた。 「…もったいない。もっと上を目指さないか」 「でもオレは一楽が良いんです」 一楽という単語が出てきた事で、つい聞き耳を立ててしまう。 「才能ある生徒を相応の大学に送り出すのも教師の仕事なんだ」 「あー、それって学校の都合でしょ?教師なら生徒の意に沿った進路指導をしてよ」 最近の高校生は手強いなと思った。 教育実習生のイルカには、どちらの言い分も正論に聞こえる。 「何でそんなに一楽に行きたいんだ?」 「目当ての人がいるから」 「人か…。習いたい教授でもいるのか?」 「ナイショ。ね、もういいでしょ。オレは今のところ進路を変える気はないから」 椅子を引く音がして、衝立の奥から顔を出したのはカカシだった。 カカシはぎょっとしたような顔をして、目を見開いている。 イルカがこの部屋を使っている事は、既にカカシも知っているはずなのに。 「なあカカシ。他の選択肢があるって事も覚えておいてくれよ」 「はいはい。じゃあね、先生」 少し気まずそうにイルカから目を逸らし、いのいちの方を振り向きもしないでカカシが部屋を出て行った。 てっきりカカシはもっと素直で真面目なタイプかと思っていたから、いのいちを相手に自分の意見を押し通しているのは意外だった。 衝立の向こう側から小さな溜め息が聞こえる。 「あの年頃は難しいな」 そう言いながら、いのいちが数通の大学案内を後ろの棚に仕舞っている。 その中から、ちらりと見えた大学名にイルカは目を瞠った。 火影大学。 エリートばかりが集まると言われている、国内一の難関大学だ。 教師が生徒の意に反して進路を変えようとするなんてよっぽどの事だが、それはつまりカカシがそれだけ素晴らしい才能を持っているという事だ。 もし、コノハ高校から火影大学合格者が出たら。 そんな母校の快挙を想像してイルカが少し興奮していると、不意にいのいちがこちらに顔を向けた。 「うみの君に頼みがある」 真剣な目をしたいのいちを見て、ごくりと唾を飲み込んだ。 急に冷や汗が噴き出してくる。 「進路を変えるよう、カカシを説得してくれないか。君ならできそうな気がする」 そんな、いきなり。 イルカの心の声は、いのいちには全く届いてはいないようだった。 map ss top count
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