奥の机にあった書類を手渡される。
全国共通模擬試験の結果と成績表、それからコノハ高校に入学するまでの経歴書だった。
もちろん、すべてカカシに関するものだ。
「あいつ、うみの君の前ではやけに素直なんだよな」
いのいちの呟きが耳に入らないくらい、その書類に目を奪われてしまった。
1年生の時に、既に模試で全国100位以内に入っている。
しかも、2年生ではトップテン入りを果たしている。
経歴の方もすごかった。
コノハ高校に入学するまでは、ご両親の仕事の都合で世界中を回っていたそうで、カカシは数ヶ国語を操れるそうだ。
そんな優秀な人材が、どうして進学校でもないコノハ高校に入学したのだろう。
「どうしてコノハに…」
気持ちが言葉になって、ぽろっと口から零れてしまった。
「あいつ、あんな派手なナリして注目されるのは嫌いなんだ。だから、可も不可もない地味なコノハを選んだらしい」
イルカの疑問に、いのいちが答えをくれた。
色々な国を慌ただしく回っていた経験があるからこそ、コノハ高校のように穏やかで落ち着いた学校での生活に憧れていたのだろうか。
模試の結果と経歴書を机の上に置き、今度はカカシの成績表に目を遣った。
1年生の時のものから3年生の最新のものまで、全ての成績が1枚に集約されている。
さぞかし立派なものだろうと思って見てみると、そのイルカの期待はあっさりと裏切られてしまった。
模試の結果とは比べものにならないぐらい、酷い。
落第点を取るか取らないかの瀬戸際で、見事に合格側に傾いている。
クラス内の順位で言えば、35人中30位以内に入った事がない。
更に、遅刻、早退、欠席が多く、出席状況も悪い。
「進級ギリギリの出席日数と成績を取るのがカカシの手口だ。あくどいだろ?」
なんだか、カカシに対するイメージががらりと変わってしまった。
素直な良い子だと思っていたのに、こんなにも計算高かったとは。
「教師として、あの捻くれ小僧が社会に出る前に、なんとか矯正しないと」
苦笑しながら冗談半分で言ういのいちに、教え子への深い愛情を感じた。
こんなに良い教師が傍にいるなんて、カカシは幸せな生徒だ。
「はたけ君は自分の将来の事をどう考えているんですか?」
「問題はそこなんだ。あいつなりに考えはあるみたいだが、なかなか白状しない」
優秀な頭脳を持っているのに、成績は悪い。
やりたい事があるのに、それを言わない。
イルカの前では素直な一面を見せるのに、そうでない時は計算高い。
一見、ちぐはぐな所があって対応が難しそうだけど、カカシなりに一貫した主張があるようにも思える。
それがわかれば、何か手を打てるかもしれない。
「まずはその本心を聞き出して、説得はそれからになるだろうな」
その言葉から、いのいちの教育への静かな情熱や生徒への思いやりが、ひしひしと伝わってきた。
イルカもそれに感化されてしまったようで、体の芯から湧き上がるようにして、やる気がみなぎってくる。
「教育実習の片手間になるが、手伝ってくれるか」
「はい!」
勢い込んで返事をすると、いのいちが力強く頷いた。

* * * * *

日を追う毎に、進路指導室にイルカを尋ねてくる生徒が増えてきた。
昼休みや放課後だけではなく、時には授業と授業のあいだの短い休み時間にも来てくれる。
しかし、それと反比例するようにカカシが来る機会は減り、滞在時間も短くなってしまった。
だからといって、カカシを名指しで呼び出す訳にもいかない。
他の生徒からカカシを特別扱いしているように見られるのは困るし、注目を嫌うカカシにも迷惑が掛かるだろう。
教育実習の授業計画よりも悩んだ末に、結局いのいちに相談すると、すぐに的確なアドバイスを授けてくれた。
「向こうが来ないなら、こっちから寄って行く。指導の鉄則だ」
そのほかにも、いのいちからたくさんの手掛かりをもらい、それを頼りにイルカはある場所に来ていた。
2年前に新しくなったばかりのプール棟。
スーツのジャケットと靴下は、鞄と共に更衣室に置いてきた。
ズボンの裾をたくし上げ、ワイシャツの袖も肘までまくる。
イルカが在籍していた頃はところどころ塗装が剥がれて、大きなひび割れを補修した痕跡も多かったが、今では見違えるようだ。
プールサイドに出ると、中央のレーンで一人で黙々と泳いでいる生徒がいた。
なめらかな波を立て、まるで海の生き物のように優雅に泳いでいる。
時刻は午後7時半。
コノハ高校の下校時刻は6時半なので、一般の生徒は既に全員下校した。
いのいちの言った通り、ここでなら気兼ねなくカカシと話せそうだ。
光りの強い夜間照明から目を庇いながら、一段高くなった飛び込み台の上に腰を下ろす。
カカシは今年、水泳の地区大会に出場して好成績を残し、同時に全国大会への切符も手にしたらしい。
水泳部員でもなかったのに。
才能とは時に残酷なものだなと思う。
日々練習に励んでいた生徒が選ばれずに、たまたま補講のために休日登校していたカカシが人数あわせで出場して選ばれてしまうなんて。
そんな水泳部員たちを気遣って、週に1回ではあるが金曜日の放課後だけはカカシも練習をするようになったそうだ。
運動部に所属していないばかりか、まともに部活動をしてこなかったカカシにしたら、それはそれは目覚しい進歩なのだという。
学校側もカカシの意を酌んで、金曜日だけは特別に夜9時までプールを使って良いという許可を出した。
つまり、イルカに与えられたタイムリミットも9時。
果たしてそれまでにカカシの本心を聞き出す事ができるだろうか。
今日は人生で初めて授業をさせてもらった思い出深い日だが、その時よりも今の方が緊張している。
「あんまりじっと見つめないでよ。テレるじゃない」
カカシが水面から静かに顔を上げた。
「あ…、ごめん」
カカシを見つめていたのは無意識だった。
規則正しい手足の動きが、考え事をするのに丁度良かったのかもしれない。
それにしても、泳いでいる時から少しは見えていたが、カカシはとんでもない体付きをしている。
水面より上の、白日の下に晒された上半身はかなり衝撃的だ。
必要な箇所に必要な筋肉だけが付いた、均整の取れた体。
同じ男であるイルカでさえ、その美しさから目が離せなくなる。
進路の事もそうだが、こんな体型で運動部に入っていないなんて、カカシにはもったいない事が多すぎる。
「…そこのタオル、取ってもらってもいいですか」
カカシが指差した、3番の飛び込み台の上に置いてあった布のようなものを手に取る。
タオルというには薄っぺらくて、どちらかというとスポンジを平らに広げたような素材だ。
カカシがイルカの方へ近寄って来たので、それを手渡そうとすると、ぱしっと手首を掴まれた。
そのまま強引にプールに引き込まれる。
「うわっ!」
ばしゃーん、と盛大な水音を立ててプールに落っこちた。
慌てて浮上して、水面から顔を出す。
「何て事するんですか…!」
「あはは!引っ掛かったー!」
カカシは腹を抱えて大笑いしているが、イルカはそれどころではなかった。
一張羅のスーツのズボンがびしょ濡れだ。
「あー!イルカ先生、乳首透けてるー!」
濡れたワイシャツを冷やかされ、恥ずかしくなって咄嗟に両手を交差させて胸を隠す。
すると、その仕草がおかしかったのか、更に大声でカカシに笑われた。
ひとしきり笑ってから、カカシがふとその場で水に潜り、急にイルカの後方から、ざばんと勢いよく現れた。
背中からがっしりとしがみ付かれ、その重みで体が傾ぐ。
「あっ…」
反動で滑ったカカシの手が胸をかすめ、濡れたワイシャツの気持ち悪さと合わさって変な声が漏れてしまった。
「…感じちゃった?」
冗談のような、そうではないような、妙な声音でカカシに耳元で囁かれる。
さすがに注意しようとしてカカシを振り返ると、肩口でカカシと目が合い、イルカの体がびくりと揺れた。
あまりの近さに驚いたのだ。
すぐにカカシから目を逸らし、顔を正面に戻す。
頬が熱い。
心臓がうるさいぐらいに脈打っている。
「馬鹿なこと言わないで下さい…」
声が震えた。
だって今、カカシにキスされるかと思ったのだ。
そんな事あるはずがないのに、切迫した防衛本能のようなものが確かに働いた。
「…すいません。ふざけすぎました」
本当に反省しているような低い声だった。
すっとイルカから離れたカカシが、水に浮かんでいたタオルを拾ってプールから上がって行く。
「イルカ先生の着替え持って来るから、先にシャワー浴びてて下さい」
そう言って、背を向けたまま肩越しに振り返ったカカシの頬が、気のせいか僅かに赤らんでいるように見えた。






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2010.08.26