付き合って3ヶ月。
外務の多いカカシとは週に1度会えればいいほうだった。
それでも、会って二人きりになれば所構わずキスをしていた。
廊下、階段の裏、本棚の影、給湯室。
今になって考えると、どこも不謹慎で居た堪れなくなる。
でも、カカシと二人きりになると尋常ではないほどの甘い空気が流れて、どうしても拒めなくなってしまうのだ。
そうして好きだと言い合いながら交わしたキスは、もう数え切れない。
でも、カカシと初めて体の関係を持ったのは、つい5日前の事だった。
カカシはとても慣れた様子で、最初から最後までイルカの体を優しく丁寧に扱ってくれた。
ただ、不慣れなイルカの体でカカシが満足してくれたのかはわからない。
抱かれる、という経験は初めてだったし、行為のあとは安堵と疲労と充足感でぐったりしてしまって、碌に話も出来ないまま離れてしまったから。
翌日が休みだったイルカとは違って、カカシには朝から任務が入っていたのだ。
すごく恥ずかしいけれど、カカシが帰って来たらあの夜の事を尋ねてみようかなと思っている。
カカシに喜んでもらうために、イルカに出来る事があるのなら力を尽くしたくて。
そんな思いを胸に秘めながら窓口業務に就いていると、イルカが待ち焦がれていた人の姿がようやく受付に現れた。
混雑していたせいか、いつもなら迷わずにイルカの列に並んでくれるカカシが、少し悩んでからイルカの列を選んだように見えた。
しかも、目が合うといつも微笑み返してくれるのに、今日はすぐに逸らされてしまった。
会うのは体の関係を持って以来だから、カカシもイルカと同じで照れているのだろうか。
報告書を受理するごとにカカシが近付いて来て、胸のドキドキが徐々に早まっていく。
顔も少し熱くなってきた。
そして、待ちに待ったカカシの番が回って来た所で、湧き上がる感情を抑えられなくなって、嬉しい気持ちが顔中から溢れ出す。
「お疲れさまです」
「…どーも」
だが、そこでカカシから返ってきたのは何の抑揚もない乾いた声だった。
報告書も手渡しされずに、さっと机の上に投げ置かれる。
肩透かしを食らったような気分だった。
「カ、カシさん…?」
いつもとはまるで違うカカシに戸惑って、思わず呼び掛ける。
「なに?」
「ど、どうかしたんですか…?」
「は…? 何が?」
呆然とカカシを見つめ返していると、ふと、カカシの肩に木くずが付いているのが目に入った。
豹変したカカシから目を背けるように立ち上がり、その木くずを払おうと肩に手を伸ばす。
「肩に…」
木くずが、と言いかけた所で、ぱしん、と手を払い除けられた。
その音は小さくて、力も弱かったのに、イルカの胸を抉るには充分な威力があった。
「…なんなのあんた。さっきから馴れ馴れしいんだけど。ここに来る奴には誰にでもそうやってへらへらして媚売ってるわけ?」
声に苛立ちを露わにしたカカシが、自身で手早く肩を払った。
カカシの刺々しい態度と言葉に立ち尽くす。
「…早く報告書処理してくんない?」
冷たい目をしたカカシに追い討ちを掛けられるように言われ、イルカの顔から、さーっと血の気が引いていく。
急にどうしてしまったというのだろう。
何かカカシの気に障るような事をしてしまったのだろうか。
それとも、やっぱり不慣れなイルカの体では満足できなかったという事を、遠回しに訴えているのだろうか。
だから突然そんな他人行儀に接してくるのだろうか。
「あっ、カカシ先輩!」
その呼び掛けに、はっとして声のほうに視線を向けると、ヤマトが慌ただしく受付に入って来た。
「どうですか?」
カカシの所まで来て足を止めると、ヤマトが間髪をいれずにカカシに尋ねた。
質問の意味がわからなかったのか、カカシが「何が?」と聞き返している。
「いや、だから…」
何かを言いかけたヤマトが、不意にイルカを見て口を噤んだ。
「おい、ヤマ…」
「ああ! すいません、先輩。あとは僕が引き継ぐので、先輩は待機所に行ってて下さい」
「もう。なんなのよ」
不満そうに言いながらも、カカシは面倒事から解放された事を喜んでいるかのように足早に受付を出て行った。
急に膝に力が入らなくなって、崩れるようにして椅子にへたり込む。
出立前のカカシとは別人のようだった。
自分の身に起きた出来事を上手く受け止められない。
信じたくないという気持ちもどこかにあって、自分で手の甲をつねってみた。
だが、痛みがあるから、これは夢じゃない。
手元にも、カカシの残していった報告書が置いてある。
体に刷り込まれた反応で咄嗟に内容を検め始めると、同行者の中にヤマトの名前も入っていた。
現実から逃避するように、報告書の文字を目で追っていく。
そこで急に手元に影が差した。
思わず顔を上げると、ヤマトが前屈みになって、内緒話をするようにイルカの耳元に顔を寄せて来た。
「実は今、先輩の記憶が飛んでいて」
ヤマトの言葉に息を飲み、イルカはこれでもかというほど大きく目を見開いていた。
「…と、飛んでいるっていうのは…」
「記憶喪失って事です」
冷たく乾いた風が、ひゅーっと胸の中を通り過ぎていった。
突然イルカの手から握力が消え、掴んでいた報告書がするりと抜けていく。
危うく取り落としそうになった用紙を掴み直し、慌てて特記事項の欄に視線を落とした。
だが、そこには何も書かれていない。
「カカシさん頭を打ったりしたんですかっ? それとも敵の術に掛かったんですかっ?」
「いえ、そういうわけでは」
「綱手様に報告っ…」
「それは僕が受付に来る前に済ませてきました」
「治療はっ…、回復はするんですかっ」
急激に込み上げた不安と焦りを、思わず目の前のヤマトにぶつけてしまった。
気持ちが昂っている。
なんとか自分を落ち着かせようとして深呼吸をした。
吐息が、がくがくと震えるように途切れ途切れに口から漏れる。
「それは…」
口籠もるヤマトに不吉なものを感じて、イルカの背筋に、ぶるっ、と寒気が走った。
じわじわと視界がぼやけてくる。
すべてを忘れてしまったのだろうか。
イルカとキスをした事も、肌を合わせた事も。
お互いに何度も好きだと言い合った事も。
「何も…覚えていないんですか…?」
ぽつりと呟いたイルカの声は、思いのほか掠れていた。
「…もし良かったら詳しい話は場所を替えて、ゆっくり食事でもしながら聞いて頂けたらな、と思っているんですが」
場所を替えて、というヤマトの言葉で、今頃になって自分の迂闊さに気が付いた。
ビンゴブックに載るほどのカカシが記憶を失っていると知れ渡れば、何か悪い事を考える輩が現れるかもしれない。
「さっそく今夜にも、お時間を作って頂けませんか」
密やかな声はそのままにヤマトが尋ねてきた。
片付けなければならない仕事は今日もたくさんある。
でも、カカシの事が気になってしまって、きっと何をしても手に付かないだろう。
それに、カカシの事より優先順位の高い仕事なんてあるわけがない。
ぐっ、と唇を引き結んで、目元をごしごしと乱暴に拭った。
せっかくの機会を断る理由はない。
「わかりました」
聞けば、ヤマトは今日、7時まで待機が入っているのだという。
ちょうどイルカも今日は7時まで受付が入っている。
それならばイルカの仕事が終わり次第、待機所に迎えに行くという事で話が纏まった。
カカシとの待ち合わせでも頻繁に使っていた方法だ。
そう思っただけなのに、胸がきゅうっと絞られるように痛んだ。
もう、カカシとはそんな事も出来なくなってしまうのだろうか。
さっきのカカシの様子からして、記憶が戻らなければ元の関係にも戻れそうにない。
今まで見た事もないような冷たい目を向けてくるカカシに、もう一度好きになってもらえる自信がない。
じわっ、とまた涙が滲んできたが、眉間に力を入れてなんとか押さえ込んだ。
時折、すん、と鼻を鳴らしながらも、カカシが持って来た報告書を受理して、ヤマトとは一旦その場で別れる事になった。







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2012.12.25