急いで帰り支度をして待機所へ向かった。
中にカカシがいるかもしれないと思って、恐る恐る所内を覗く。
すると予想した通り、カカシが窓側のソファーに座っていた。
隣にはヤマトがいる。
2人で何か話しているようだ。
カカシがヤマトより先にイルカに気付いて、こちらに顔を向けた。
すぐにヤマトもイルカに気付き、カカシとの会話を打ち切ってこちらに駆け寄ってくる。
「お疲れさまです…」
「お待ちしてました。とりあえず店は予約してあるんで、行きましょうか」
ちらちらとカカシの様子を窺っていたら、ヤマトに背中を押されて先を促された。
そのあいだカカシは、ヤマトと話していた時とは違って、ずっと険しい表情でイルカを見ていた。
「すみません、お話の途中にお邪魔してしまって…」
本当はカカシに言いたかった事を、代わりにヤマトに伝える。
ヤマトとの会話を遮ってしまったから、カカシの気分を害してしまったのだろう。
いつも温厚だったカカシの変貌ぶりが悲しい。
でも、カカシをそうさせている原因は自分にあるような気がした。
「いえ、とんでもない」
ヤマトが瑣末な事だと言わんばかりに軽い声で答えた。
人の良さそうな笑みまで向けてくる。
だが、その顔を僅かに上向かせて、困ったように小さく息をついた。
「やばいなぁ…。急がないと…」
ぼそ、とヤマトが呟いた。
そういえば、店を予約してくれていたと言っていた。
その時間が迫っているか、もしくはもう過ぎているのかもしれない。
「お店、急いだほうがいいですか」
そう言いながら、少し早足になる。
「あ…、そ、そうですね」
独り言を聞き取られたようで恥ずかしかったのか、ヤマトがどこか戸惑ったように頷いた。



ヤマトに案内されたのは、小ぎれいな個室居酒屋だった。
こんなおしゃれな店、カカシとは一度も来た事がない。
カカシと外で飲む時は、赤提灯か古びた小料理屋と決まっていたから。
イルカもそのほうが馴染みがあるし、値段も手頃だったから、それで充分に満足していた。
「意外です。イルカ先生って、熱燗とか焼酎とかお好きなんだと思ってました」
運ばれてきた梅酒ソーダのグラスを取ろうとした所でヤマトが言った。
そう言うヤマトは、1杯目から赤ワインを頼んでいる。
「俺、けっこう弱いほうなんで…」
「そうなんですか」
やけに嬉しそうに相槌を打ってきたヤマトを不思議に思いながらも乾杯をして、さっそく本題に入る。
「あの…。それで、カカシさんの容態は…」
「えーっと…。詳しい事は言えないんですが…」
重々しいヤマトの前置きに、ごくりと息を呑んだ。
「里のことも先輩自身のことも覚えているんです。でも、イルカ先生の記憶だけが欠けていて」
俺の記憶だけ…、と心の中でヤマトの言葉を復唱した。
「回復のほうは…時間が解決するのを待つしかないみたいで」
ひりひりする咽喉を潤そうとして、酒を一気に流し込んだ。
途端に、かーっと頬が火照り出して、どん、とグラスをコースターの上に置く。
「どうしてカカシさん…俺の事だけ忘れちゃったのかな…」
早くも酒が回ってしまったようで、心の声が外に漏れていた。
思い当たる事は一つしかなかった。
ヤマトの意見を聞いてみたくて、それを尋ねようとした所で料理が運ばれてきた。
そこでヤマトはもう飲み物のおかわりを注文している。
「やっぱり…俺の体が不満だったからですかね…?」
店員が出て行った所で、さっそく口を開いた。
「か、体って…。そんな事はないと思いますけど…。イルカ先生、もう酔ってるんですね。可愛いなあ」
「可愛くなんかないです」
ヤマトの曖昧な答えにも、ひやかされた事にも不貞腐れて、残りの酒を呷る。
すると、ちょうどそこでまた店員が入って来て、さっきヤマトが頼んでいた飲み物が届いた。
そこには、イルカが飲んでいた梅酒ソーダも入っている。
ヤマトの手際の良さに驚いていると、イルカの手元にあった空のグラスを、店員がおかわりと交換した。
こんなに早いペースで飲むのは随分と久しぶりだ。
最近はいつもカカシが隣でイルカの酒量をセーブしてくれていたから。
「…俺が可愛かったら、初めてエッチしたあとに忘れられたりしないです」
店員がいなくなったあとに、またすぐにぼやいた。
「初めてって…。ああ、だから先輩あの時…」
「カカシさん何か言ってましたかっ? 俺とのエッチの事っ」
「いえ、そういうわけじゃ…」
ヤマトの答えを聞いて、がっくりと肩を落とす。
自棄になって、またがぶがぶと酒を飲んだ。
「エッチエッチって…。普段うぶうぶしてるイルカ先生にそんな言葉連発されたら僕…」
「俺はウブなんかじゃありませんっ!」
もし本当にイルカが初心だったら、不謹慎な場所で何度もカカシとキスをする事なんて出来るはずがない。
「あー…、そうですね。すいません、すいません」
酔っ払いを相手にするのが面倒になったのか、ヤマトが軽くあしらうように謝ってきた。
困ったような嬉しそうな顔をして、へらへらと笑っている。
「いや、あの、だから…。つまりですね、僕が言いたいのは」
変な所で言葉を区切ったヤマトが咳払いをして、するりとイルカのほうへ手を伸ばしてきた。
グラスを握っていたほうの手を、両手でそっとヤマトに包まれる。
「僕で良かったら何でも相談に乗りますからね、って事です。僕に出来る事があれば何でも言って下さい」
「ヤマトさん…」
さっきまでのへらへらは完全に消えていた。
真剣な目をしたヤマトの頬は、僅かに紅潮しているようにも見える。
それが酒のせいでない事ぐらいは、イルカにもわかった。
ヤマトは、それだけ本気でイルカの事を気遣ってくれているのだ。
「ありがとうございます…」
ヤマトの心強い言葉に安心して、頼んでいないのに次から次へと運ばれてくる酒を飲み続けた。
それからどれくらい経ったのか、ふと気付いた時にはヤマトに肩を借りて店を出ようとしている所だった。
頭も視界もぼんやりとしている。
「あのぉ…、俺ぇお金払ってないんれす、けどぉ…」
恥ずかしいぐらい呂律が回っていなかった。
でも、無銭飲食をするわけにはいかないから、尋ねないわけにもいかない。
「今日は奢らせてもらいました」
「そんなぁ…。申し訳ないれすよぉ…。俺もちゃんと払いますからぁ…」
そう言って自分の懐に手を入れようとした途端に足元がふらついた。
すかさずヤマトに腰を引き寄せられる。
「酔わせた責任を取っただけですから、気にしないで下さい」
「でもぉ…」
「とりあえず、帰り道がわかれば家まで送りますけど…、無理なら僕の家に」
ヤマトの言葉で、以前カカシと交わした約束を思い出した。
『酔って帰る時は必ずオレを呼んで下さいね。オレが来られない時は頑張って一人で帰るんですよ。誰かに家まで送るって言われても絶対に断って』
か弱い女性を扱うように、カカシはイルカの周りにいる人たちの事を、相手の性別を問わず過剰なほど警戒していた。
カカシが里にいる時は、本当に律儀にいつも家まで送ってくれて。
こんなむさ苦しい男に襲い掛かろうとする輩なんているわけがないのに。
でも、カカシに心配される事が嬉しかった。
愛されているという実感もあった。
その姿が今日の冷たかったカカシと重なって、不意に涙腺が緩んだ。
ヤマトに支えられながら慌てて鼻を啜り、店員が開けてくれたドアから店を出る。
「…ヤマト」
その聞き慣れた声に、咄嗟に顔を上げる。
いつものようにカカシが迎えに来てくれた。
目の前にカカシがいるのを見たら、記憶を失っている事も忘れてそんな事を思っていた。
「カカシさぁん」
ふにゃとした情けない笑みを零しながら、ふらふらと手を伸ばしてカカシのほうへ足を踏み出す。
「これからちょっといい? 話したい事があるんだよね」
ヤマトに向かってそう言ったカカシが、一気に距離を詰めて来た。
これでカカシと一緒に帰れる、と思って更に気が緩む。
だが、カカシはイルカを受け止めてはくれなかった。
イルカの体を躱し、既にイルカから離れかけていたヤマトの手を少し手荒に引き剥がしただけだった。
支えを失ったイルカの体が、すぐにふらつく。
近くにあった街灯の冷たい柱に掴まって、なんとかバランスを取った。
「ちょっ、先輩っ」
ヤマトがぎょっとした顔をして、カカシとイルカを交互に見ている。
「ま、その酔っ払いは一人で帰れるでしょ。男なんだから甘やかす事はないよ」
苛立ち交じりに言ったカカシがイルカに背を向け、そのまま一度も振り返る事なくヤマトを連れて消えてしまった。
じわ、と込み上げた涙が、瞬く間にイルカの頬を伝っていく。
胸の奥が痛くてたまらない。
とてもじゃないけれど、今は欲目に見てもカカシに好かれているとは思えなかった。






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2013.01.13