イルカの住む古びたアパートまで来た所で急激に速度を落とした。
その分、他の感覚を研ぎ澄ます。
足音も気配も消して、イルカの部屋の前で立ち止まった。
「で、でもっ、まだたった2日ですしっ…、こういう事はっ、もう少しカカシさんの経過を見てからでもっ…」
薄いドア一枚を隔てた向こう側からイルカの声が聞こえてきた。
イルカの他に誰かがいる。
さっとドアノブを掴み、施錠されている事には気付いたが構わずに強引にドアを開けた。
支給服を着た何者かが、イルカに覆い被さっている。
カッと頭に血が上って、相手が誰なのか確かめる余裕もなく、イルカに圧し掛かる男のこめかみに渾身の力で拳を打ち込んでいた。
咄嗟だったために、チャクラを練り込む事も忘れた。
岩と岩が衝突するような重たい音がする。
すぐに忍服の襟を後ろから掴んで、男を引き起こした。
その時になって、初めて相手がヤマトだとわかった。
「…記憶が、戻ったんですか」
ヤマトがまったく悪びれる事なく呟いた。
その言葉にイルカのほうが驚いたようで、目を見開いていた。
こんな状況でも、イルカの目は澄んだ色をしていた。
その素直さに付け込もうとしたヤマトに、心の底から怒りが込み上げる。
「お前…。イルカ先生に何を…」
感情のままに、再び拳を構えた。
「カカシさんっ」
立ち上がったイルカに、振り上げていた腕を抱き込まれた。
「ヤマトさんは悪くないんですっ! これは俺のためにっ、ヤマトさんは俺の事を思ってっ、体を差し出そうとしていただけなんですっ」
イルカの捨て身の制止に、思わず動きを止めた。
こんな事をされてまで、まだイルカはヤマトを庇おうとするのか。
その人の良さが、今は少し恨めしかった。
でも、イルカのこの純粋さを見せ付けられると、もうカカシは降参するしかなくなってしまう。
イルカには、人の気持ちを穏やかにさせたり、清らかにさせたりする不思議な力がある。
拳を解き、すごすごと腕を下ろした。
ヤマトの襟を掴んでいた手も離す。
「…綱手様に報告してきます」
抑揚のない声を出したヤマトが、静かに踵を返した。
その後ろ姿には、哀愁を通り越して悲愴感が漂っていた。
嫌味の一つでも投げつけてやろうと思っていたのに、何も言えなくなる。
「…僕だって、なりふり構っていられないぐらい欲しいものがあるんです」
捨て台詞のようなものを残して、ヤマトが姿を消した。
イルカの手がカカシから離れ、かち、という軽い音と共に玄関に黄色み掛かった白い明かりが灯る。
それだけで、張り詰めていた空気がふんわりと和らいだような気がした。
「カカシさん…」
イルカの瞳が頼りなく揺れている。
口に出さなくても、イルカの聞きたい事はわかった。
本当に記憶が戻ったのか、イルカの事を思い出したのか。
言葉よりも行動で示したほうが信じてもらえると思って、さっと口布を下ろした。
イルカの頬を両手で包み込む。
僅かに皺が寄っていた眉間に、そっと唇を落とした。
耳たぶや耳の後ろを撫でながら、触れるだけの口付けを何度も額や瞼に落としていく。
「…くすぐったい、です」
しばらく大人しくしていたイルカが、笑い交じりに苦情を訴えてきた。
口付けを止めてイルカの体を抱き寄せれば、すぐにイルカもカカシの背中に腕を回してきてくれた。
「…ごめんなさい。いっぱい酷い事して」
「それは…もういいんです。昨日と今日で色んな事があったけど、カカシさんは優しかったし、俺の気持ちも変わらなかったから」
イルカの記憶だけが抜けていたくせに、ずっとイルカの事が気になっていた、と言ったら笑われるだろうか。
イルカが誰かと一緒にいたら割り込みたくなるし、具合が悪そうだったら心配になるし、と言ったら呆れられるだろうか。
「でもあの…、シズネさんとはどういう…」
イルカが言いにくそうに口籠もりながら、ぼそぼそと尋ねてきた。
何か誤解しているような口ぶりだった。
「彼女には記憶の回復を手助けしてもらおうと思ったんです。綱手様が非協力的だったから、公共の施設だと邪魔が入ると思って」
本当の事を率直に伝えると、イルカも安心したようで、ぎゅうっとしがみ付いてきた。
ぽんぽんと背中をさすってイルカを宥める。
よっぽど不安だったのだろう。
イルカが素面でここまで甘えてくる事なんて滅多にない。
「俺…カカシさんが俺の体で満足できなかったから、俺のこと忘れちゃったんだと思ってました。だからシズネさんと…」
「えっ…? ええっ!?」
思いも寄らないイルカの言葉に、情けないほど狼狽えた。
たしかにあの夜、イルカはぐったりしていて意識を失いかけていたけれど。
でも、カカシの呼び掛けには弱々しくても相槌を返してくれていたから、すべてを聞いていたのだと思っていた。
初めての営みの感想というか、イルカとひとつになれた喜びをしつこいぐらいに語っていた、セクハラまがいのカカシの愛の言葉を。
「オレっ、何度も言いましたっ…! イルカ先生の体は最高だって…!」
こんな濡れ衣を着せられてはたまらないと思って、必死に潔白を主張する。
「感度はいいしっ、声はエロいしっ…」
「もっ、もういいですっ、わかりましたっ」
すると、途中でイルカが焦ったように口を挟んできた。
イルカは首まで赤くしている。
もっと詳しく説明して思い知らせたかったが、これ以上言うとイルカが恥ずかしがる事に愉悦を覚えてしまいそうだったので自制した。
あの時の喜びは、ベッドの中で身をもって教えればいい。
「それにしても…どうしてヤマトさんは急に帰り際に、欲しいものの話なんてしていたんでしょうか…」
自身の事から話を逸らしたかったのか、イルカが唐突にヤマトの事を口にした。
イルカはヤマトの真意にはまったく気が付いていないようだ。
あんな強行手段まで取ったのに、少し不憫だ。
でも、同情はしない。
してたまるか。
だって、ヤマトはカカシが一番大切にしているものに手を出そうとしたのだ。
「…それを持ってるオレが羨ましかったんですよ」
「カカシさんが持っていて…ヤマトさんが持っていない羨ましいもの…って、まさか写輪眼じゃないですよね?」
「違います。でも、すごくきれいなものですよ」
ヤマトに当て付けるようなつもりで、イルカの疑問にヒントを与えた。
人のものを取ろうとしなくたって、ヤマトにもいつか、ヤマトだけの特別がきっと見つかる。
カカシがそうだったように。
「きれいなもの…」
イルカがカカシの言葉を邪推する事もなく復唱した。
そのきれいなものが今、自分の腕の中にいる幸運に誰にともなく感謝したくなって、不意にイルカを強く抱き締めた。






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2013.05.30

 

 

 

 

414141Hit モカさんからのリクエスト
『カカシさん記憶喪失でイルカ先生大ショック』
『今がチャンス!と、ヤマト隊長、本気モード』
『健気!切ない!イルカ先生』
でした。
お題が盛り沢山だったので、つい話が膨らみすぎてしまってすみませんっ!
そして大変お待たせしてしまってすみませんっ!
思いのほか長い話になりましたが、少しでも楽しんで頂けたら嬉しいです。

リクエストありがとうございました!