なぜなのかはわからない。
昨日はただ突き動かされるようにして、ヤマトが予約しているのを立ち聞きしていた店へと向かっていた。
そこから二人が出て来たのを見て、激しい不快感が溢れ出した。
泥酔したイルカに、ヤマトがベタベタと触っていたからだ。
イルカの事になると、カカシは簡単に冷静さをを失ってしまう。
甘えるような声でカカシを呼んだイルカに惑わされる事もなく、ヤマトの手をイルカから引き剥がした。
それがカカシに出来る精一杯の事だったのだ。
だって、イルカの事をよく知りもしない自分には、イルカを家まで送っていく権利なんてないから。
その口惜しさから、また余計な事を言ってしまった。
本心とは懸け離れた憎まれ口を。
もちろん、あんなイルカを一人で帰すなんて心配に決まっている。
でも、ヤマトに送らせるのはもっと心配で、適当な理由を付けてヤマトを連れ出してイルカには密かに忍犬をつけた。
しばらくしてイルカが無事に帰ったという報告を受けて安心していたものの、翌日仕事で待機所に来たイルカの顔色の悪さを見て、咄嗟に眉間に皺を寄せていた。
ヤマトが飲ませすぎたに決まっている。
新たな不快感に苛まれていると、すっ、とイルカに目を逸らされた。
そのままイルカはてきぱきと用事を済ませて、待機所を出て行ってしまった。
元気のないイルカが気がかりで、頭で考えるよりも先に体が動いていた。
売店で二日酔いの薬を買い、その足でイルカの後を追えば、裏庭のトイレで男に絡まれていて黙っていられなくなる。
なんでこんなに危なっかしいのだ。
これだから放っておけない。
呆然としているイルカの手を軽く引けば、それだけでカカシのほうへ倒れ込んでくる。
こんなに隙だらけで大丈夫なのだろうか。
守ってあげたい、という気持ちが急激に強まって、胸で受けとめたイルカを離したくなくなってくる。
でも、それでは先程の不審な男と同じになってしまうと思って、イルカに意地悪な質問をした。
「…ひとりで歩けないの」
はい、という答えが返ってくれば、それを口実にイルカと触れ合ったままでいられると思った。
だが、返ってきたのは「すみません」という言葉で、イルカは慌てたように離れて行ってしまった。
失敗だ。
完全に逆効果だった。
それでも諦め悪く、裏庭を出るまでイルカの手を引いていた。
安全な所まで来て、さり気なく薬を渡すと、今度はこちらがたじろぐような笑顔を平然と向けてくる。
直後にヤマトが現れた事でやり過ごせたものの、やたらとイルカを構うヤマトに苛立って、わざとイルカから遠ざけてやった。
それからシズネに話を持ち掛けて、仕事のあとに来てもらったのだ。
「私はどちらでも…」
シズネの声が戸惑っている。
イルカが走り去った事よりも、その事に動揺しているカカシに驚いているようだった。
「…すいません。日を改めてもらえますか」
「わかりました」
どこか安堵したように返事をしたシズネが、静かに帰って行った。
まだドアの前にイルカの気配が残っているような気がして、なかなか家に入れない。
このまま何事もなかったかのように家に入る事が、罪であるようにさえ思えてくる。
その時ふと、足元に見慣れないものが落ちている事に気が付いた。
一般的なものよりも少しがっちりとした水筒だ。
イルカが置いて行ったものだろうか。
ならば見過ごすわけにはいかないと思って、恐る恐る拾い上げた。
上下、左右から様子を窺い、慎重に蓋を回し開ける。
ふわ、と湯気が立ち、みそ汁のいい匂いがした。
それを嗅いだ瞬間、びり、とカカシの頭に電流のようなものが走った。
その微かな衝撃が、びり、びり、と不規則に続いて顔をゆがめる。
自分の体に起きた反応を不可解に思いながらも、何かに導かれるようにして水筒に口をつけた。
うまい。
カカシの好きな茄子のみそ汁だ。
そう認識した途端、目を開けていられないほどの電流が頭の中に流れ込んできた。
瞼を閉じているのに目の前が白、黒、赤、黄色に点滅する。
危うく取り落としそうになった水筒を慎重に抱え直し、眉をしかめたまま細々と目を開ける。
もう一滴だってイルカの善意を無駄にするものかという気持ちで、きっちりと蓋を閉めた。
平衡感覚がおかしくなってドアに凭れる。
段々と立っている事も難しくなってきて、その場にうずくまった。
あぶら汗がこめかみを伝い、びりびりした痛みがずきずきと疼くようなものに変わった。
頭痛はどんどん激しくなって、気休めとはわかっていながら両手で側頭を押さえる。
そこで突然カカシの体が、びくん、と跳ね上がった。
怒濤のごとく溢れ出した記憶の数々に、かっ、と目を見開く。
じっとしている場合ではないと気付いて咄嗟に立ち上がった。
足元をふらつかせたまま玄関に水筒を置くと、カカシは脇目も振らずに走り出していた。



「今日の先輩、やけに機嫌よくないですか」
出立して早々、ヤマトが不思議そうに尋ねてきた。
そんなにわかりやすかっただろうか。
でも、抑えるつもりもなかったから仕方がないかもしれない。
だって、初めてイルカとひとつになったあとなのだ。
イルカの体は無垢で素直で最高だった。
あの体をこれからも存分に愛せるのかと思うと、頭の中がバラ色に染まって、お花畑の中を駆け回っているような気分になる。
これで浮かれるなというほうが無理だ。
「まあね。今ならオレ、敵に命乞いされたら逃がしてあげちゃうかも」
こんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。
「じゃあ、僕のお願いも聞いてくれますか」
基本的に低姿勢のヤマトにしては珍しい事を言ってきた。
興味と機嫌の良さから口が軽くなる。
「ああ、なんでも言ってみて」
次の任務を代わってほしいとか、休暇中に植木の世話をしてほしいとか、その程度の事ならいくらでも引き受けてやる。
「新術の実験体になってもらえませんか。今、改良中の術があるんです。もちろん綱手様から許可を得ている真っ当な術ですから」
「どんな術?」
「印を施した古い神木を依り代にして、記憶を刻み付ける術です」
更に話を聞くと、今までは10日ぐらいが限度だった効力が、1ヶ月から1年程度に伸ばせるかもしれないという事だった。
すべての記憶ではなく、対象を一部に絞る事で効果が見込めるらしい。
途中の解術も可能で、解術しなくても効力が弱まれば自然に神木に刻まれた記憶は消えていくという。
記憶のコピーを依り代に刻むだけなら、術で日報を書くようなものだろう。
「先輩みたいな特殊な人が相手だと効力が減退するかもしれないですけど」
記憶に関する術の試験に人が集まりにくい事はカカシも知っていた。
それに、術や薬の実験体になる事には慣れている。
「いいよ。オレの記憶を他に漏らさないでくれれば」
カカシの気が変わらないうちにと思ったのか、さっそくヤマトに術を掛けられた。
周到なヤマトに、術を掛けられた時の記憶ごと封じられて、自分が術に掛かっている事も忘れていた。
この時は、特定の記憶を抜き取る術だなんて思わなかったのだ。
しかもよりによってイルカに関する記憶だけだなんて。
どうしてヤマトがそんな事をしたのか。
カカシの記憶を封じているあいだに、何をしようとしていたのか。
平和主義者のヤマトが物騒な事を企てるとは思いたくない。
だが、柄にもなくカカシをだますような事をしている時点で疑わざるを得なかった。
ヤマトはカカシの記憶が想定よりも早く戻る事を施術前から察していた。
それがカカシの焦りをひたすらに煽る。
遠くに見えてきたイルカの部屋に明かりが点いていない事が不吉でしょうがない。
どうか無事でいてくれ、という切迫した思いだけがカカシの胸に満ちていた。






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2013.05.02