夕方、受付の手伝いをするために、1階の渡り廊下を歩いていた。
「イルカ先生ー!」
遠くからナルトの声がして、すぐに腰に飛びつかれる。
思わず笑みが零れた。
随分と早く走れるようになったものだ。
「いいこと教えてあげるってばよ!」
「ん? なんだ?」
「上忍になれる方法!」
ナルトに引っ張られて軽く膝を曲げると、こそこそと耳打ちしてくる。
「失恋するんだって! カカシ先生が言ってた!」
イルカ先生も頑張ってな! と言いながらナルトは、ぴゅーっと受付へ走っていった。
意外だ。
まだカカシには会った事がないけれど、資料を見る限りではそんな冗談を口にする人には思えなかった。
でも、もし本当に失恋で上忍になれるのなら、今頃はイルカだって昇格していないとおかしい。
胸が、ずき、と疼いた。
ほんの少し思い出しただけなのに。
もう15年以上前の傷なのに。

               * * * * *

やばいっ…、落ちるっ…! 
と思ったけれど、服のあちこちが枝に引っかかって、事なきを得た。
いつも忍者ごっこをしている裏山で、イルカが初めて登った木だ。
でも、逆に下りられなくなってしまった。
体を捻っても、手足を動かしも、状況は変わらない。
どうしよう。
本物の忍者なら、身代わりの術で簡単に抜け出せるのに。
こんな事で誰かに助けを求めたら、アカデミーに入学できなくなってしまうだろうか。
それだけは嫌だ。
ひたすら、じたばたと一人でもがき続ける。
その時、あたたかい風がふわりと通り過ぎて、次の瞬間には地面に足がついていた。
「怪我は?」
イルカより少し年上のお兄さんだった。
服に付いた小枝や葉っぱを、優しい手つきで払ってくれる。
おでこに巻かれた額宛てがかっこよくて、眩しい。
「大丈夫…」
珍しく照れてしまって、小さな声しか出せなかった。
相手は本物の忍者だ。
将来、イルカの先輩になる人。
「そう。じゃあ、気をつけてね」
立ち去ろうとする気配を感じて、咄嗟に服の裾を掴んだ。
まだお礼を言っていない。
あの…、と呟いて目を泳がせる。
「なに?」
「あの…、あり…がとう…。助けてくれて…」
もじもじと上目遣いで見上げた。
憧れの忍者と話せた嬉しさで、はにかみながらもにっこりと笑いかける。
お兄さんが驚いた顔をした。
じっと見つめられて、ほっぺたが熱くなって、胸がどきどきしてくる。
「…正式なお礼の仕方、知ってる?」
はっとした。
ありがとうを告げるだけでは駄目なのだろうか。
もしかして、お金を渡すのだろうか。
でも、そんなものは持っていない。
何か代わりになりそうな持ち物はないかと考えて、慌ててポケットに手を入れる。
そこには、4歳の誕生日の時に父からもらったゴム製の手裏剣が入っていた。
イルカの宝物だ。
それを差し出すと、途端にお兄さんの目元が柔らかく細まった。
しまって、と言われてほっとする。
「感謝の気持ちを伝える時は、唇と唇をくっつけるんだよ」
「えっ、そうなの…?」
初めて知った。
両親からも聞いた事がない。
不意に、お兄さんが口布を下げた。
とても整った顔だ、と思っていたら、唇が触れ合った。
ちゅ、ちゅ、という可愛らしい音が何度もする。
よくわからないけれど、とても幸せな気分だった。
「…唇と唇が恥ずかしい時は、頬に唇を付けるだけでも意味は同じだからね」
お兄さんが自分の白い頬を指差した。
「ここに唇を付けて。練習だよ」
素直に従うと、お兄さんのきれいな顔が、ふにゃっと崩れた。
「いつもこの辺で遊んでるの?」
「うん」
「じゃあ、また来るよ。一緒に遊ぼう」
「うん!」
「君、名前なんていうの?」
「イルカ!」
それからは時々お兄さんが遊んでくれるようになった。
手裏剣の使い方や印の組み方を手取り足取り教えてくれる。
任務で忙しい時でも会いに来てくれた。
強くて、優しくて、大好きだった。
だからまさか、お兄さんに嫌いだと言ってしまう日が来るなんて、考えてもいなかった。






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2014.02.03