カカシはある日を境に、タオルなど手拭いの類を一切持ち歩かなくなった。





ニッコリと。

「お疲れ様です」

疲れなど微塵も感じていないような笑顔を、イルカに向けた。

「お疲れ様でした。お?今日は農家のお手伝いでしたか?…頬に泥が付いてますよ」

イルカがクスクス笑った。

もうそれだけで、カカシは蕩けてしまいそうになる。

「いや〜、お恥ずかしい」

指摘された部分をポリポリ掻いた。

「ちょっと洗ってきますんで、その報告書、イルカ先生に一時保管を頼んでもいいですかね?」

「くくっ。はい、了解しました。…あ!カカシ先生、ハンカチはお持ちですか?」

「あ、いえ。…スイマセン。また、お借りできますか?」

「はい」

イルカがポケットをごそごそしている。

そして、アイロンのかけられた真っ白いハンカチを、慣れた手つきで手渡された。

「いつもスイマセン。じゃ、よろしくお願いします」

「はい」

再度にっこりと微笑まれて、更に更に離れ難くなった。

水で顔を洗い、鏡で自分を見つめていると、初めてイルカからハンカチを借りた時の事を思い出した。

この受付所の御手洗で束の間の一時を過ごし、いつものように手を洗っていた時だ。

自然と、ポケットやポーチから手拭いの類いを探ったが、止血用の綿布すら一枚も出てこなかった。

まぁいいかと思い、ズボンでゴシゴシやっていると出入口に人影が現われて、それが中に入ってきた。

その人は、見間違うわけのないイルカ本人だった。

イルカはカカシの姿を見るなり、クスッと笑った。

『ハンカチをお忘れですか?俺ので宜しければ…どうぞ』

差し出された真っ白いハンカチ。アイロンだってかかっている。

『す、すいません』

イルカの清潔さに目が眩んだ。

改めて手を洗い直し、そのありがたいハンカチを使わせて頂いた。

『ありがとうございました。ちゃんと洗って返しますね』

カカシがそう言ってイルカを見ると、イルカの様子が少しおかしい事に気付いた。

しきりに額の辺りを気にしているのだ。

『どうかしたんですか?』

『あ、いえ、隣で演習をしていたくノ一クラスの流れ弾が当たりまして…。ははは。お恥ずかしいです』

本当に恥ずかしそうに照れ笑いをするイルカが可愛くて、その時、怪我の事はどうでもよくなってしまった。

『そうですか。体には気をつけて下さいね』

人の気配の無いトイレで愛しのイルカと二人きりという状況は、盛んな下半身には悪影響で、そそくさとその場を後にした。

まだまだ記憶に新しいそんな出来事を思い出し、キッカケなど案外近くに転がっていたものだなと、変に感心した。





* * * * *





カカシから受け取った報告書をとりあえず保留にして、イルカは他の書類の処理をしながら彼の事を考えた。

凡人が天才に憧れるというのは、自然の摂理に適っている事だと思う。

たとえ、冷徹な殺人機械という噂を聞いたって、才能ゆえに里の為に実力を行使してきた結果だと考えれば、彼の誠実ささえ窺えた。

強さを裏付けた噂に、忍者達のおひれが付いただけ。

…そう思うのは惚れた欲目だろうか。



カカシが里にいると何かと目立つ。

暫く任務で里を離れていても、無事に戻ってきた事がすぐに伝わってくるほどに。

元生徒達との繋がりのおかげで、その伝達は加速した。

内緒だが、ナルト達には本当に感謝していた。

声も届かないほど遠かったカカシから、気軽に声を掛けてもらえるようになったのだから。

最近では、物の貸し借りをする仲にまで進展した。

物といっても、たかがハンカチ一枚の事だけれど。

端から見たら、言葉は悪いが利用されているように見えるかもしれない。

カカシ本人だってそう思っているかもしれない。否定は出来ない。

でも、今のイルカにとってはたったそれだけでも重要な事なのだ。

初めてハンカチを貸して、それがカカシから返ってきた時だって、予想外のお返しが付いてきてイルカは小踊りさえするところだった。

『お礼に食事でも…』

その言葉に、胸は煩いくらい高鳴るし、顔はだらしなくニヤけるし。

嬉しさを隠せずにストレートに表情に出した。

しかし。

『そんなに気を使わないで下さい…。ハンカチ一枚なんですから…』

口から出たのは気持ちとは正反対の言葉。

一度良い夢を見ると、二度も三度も欲しくなってしまう。

語尾には断りたくないという本音が見え隠れし、小さな間が出来ていた。

『その、迷惑でなければナルトの話とかも聞きたいので…。ダメですか…?』

揺らぐ気持ちにとどめが刺さった。

『そういうことでしたら、是非ご一緒させて下さい。あ、給料日前なので安い店にしてもらえますか?』

何か口実があれば、今回だけなら行っても許される気がした。

しかし、OKしたらOKしたで、嬉しすぎて感情に抑えが利かなくなってしまいそうだ。

『奢りますよ』

『それじゃダメです』

微笑んで、柔らかくかわした。

それ以来。

カカシは自分と頻繁に関わってくれるようになった。

近況だって直接本人から聞ける。

たったそれだけの事だが、イルカにとってはささやかな幸せだった。



カカシがハンカチを持っていなかったあの日に、カカシが手を洗っているあの時に、自分があの場所へ訪れたという偶然。

額の傷が赤くなっていたら、生徒達に笑われると思って、手鏡など持たない自分は仕方なくトイレへ行ったのだ。

あの日、トイレに行く羽目になった原因の、額に石をぶつけた女教師に、少しは感謝するべきだろうか。

いや、しかし。

彼女のアレには悪意が籠もっていたようにも感じた。

すぐに謝りに来たのと、その時の申し訳なさそうな笑顔のおかげで、すっかり失念していたが。

こちらに向けられたと思ったマイナスの空気は、ただの勘違いだったのかもしれない。



しばらく受付で業務を全うしていると、いつの間にかカカシが戻って来ていた。

数人の報告書を処理しながらもカカシの事ばかり考えていたのに、本人の気配に気付かないなんて、情けない。

「カカシ先生、報告書は問題なかったので通常通り処理しました」

人もまばらになったので、ソファーに座っているカカシに直接声を掛けた。

「ありがとうございました。…あ、の、…これから食事でも…?」

こんな情けない俺にも気を遣ってくれるんですね。

心の中で人知れずジーンとしていたら、つい返事を忘れてしまった。

「顔も洗いましたし…」

頼りない声が聞こえた。

「あ、はい!喜んで、ご一緒させて頂きます」

焦って勢いよく返した。

早く帰る口実も出来たし、事務仕事の方は今日までに請求を出すものだけやって、残りは後回しにしよう。

「よかった。今日は何が食べたいですか?」

「うーん…。そうですね、久々に湯葉が食べたいです」

「湯葉ですか!いいですね!オレ、店探しときます」

「よろしくお願いします。あと一時間くらいで帰れると思いますから」

店探しをカカシ任せにしてしまった事と、あと一時間も待たせてしまう事に罪悪感が沸いた。

「そんな顔しないで下さい。誘ったのはオレの方ですし」

困った顔を隠すように一旦俯き、笑顔を準備してから顔を上げた。

「すいません。よろしくお願いします」

「あなたと過ごす時間を考えたら、店を探すのだって、一時間待つのだって、全然苦になりませんよ」

今度は自然に笑顔が洩れた。

(ああ…カカシ先生のそういう所、好きです)

「すいません」

こんな思いを抱いている自分を含めて申し訳なくて、小さく頭を下げた。














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2002.09.15