「あ、あの人いいな」
そう思ったらすぐに行動するのが、いつ死ぬかわからない上忍の習慣になっていた。
人生に悔いは残さないように。
「ふーん、珍しいわね。アンタがああいうの」
「カカシ、あれはやめたほうが良くないか?火影の側近だろ」
受付で見る、人のいい笑顔が気に入った。
アカデミーの教師も兼ねているとの事なので、子ども好きなのだろう。
忍のくせに無邪気な笑顔なんて、随分矛盾したものを持っているじゃないか。
単に、興味が沸いた。


「イルカ先生?だったよね。今晩ヒマ?」
「はい?」
イルカは聞こえた言葉の意味を考え、わざと確認するように聞き返した。
「だ、か、ら、今夜ヒマですか、と聞いたんです」
少し怒った口調で言うと、慌てて返事をした。
「い、忙しくはありませんが、特に暇という訳でも…」
言葉を濁すような曖昧な答え。
やることはいくらでもあるんです、と付け足す。
「じゃ、俺の為に少しだけ時間割いてくれません?アンタと食事でもしようと思って」
会話の主導権はカカシが握っていると言わんばかりに、強い口調で言う。
「食事ですか…?ああ、ナルトの事で何か?」
「そうです、そうです。だからここじゃなんだし、外で食事でもしながら」
ナルトなんて関係なかったが、そう勘違いして誘いに乗るのなら、テキトーに答えた方が無難だ。
「わかりました。あと少しできりを付けますから、応接室でお待ち頂けますか?」
「う〜ん、そんなのいいよ、あんたの横の椅子で待ってる」
「そうですか?」
脳天気な中忍は別に変だとは思わず、素直に従った。


何度か行った事のある小料理屋に入り、男二人だったのでカウンターを勧めらたが、それを断り座敷を空けてもらった。
とりあえずビールで、後はお任せで運んでもらう事にした。
「乾杯」
座敷といっても個室なので、こういった雰囲気に慣れていないだろう中忍は緊張した面持ちで小さくカンパイ、と言った。
「イルカ先生ってお酒強い方?」
酔わせて押し倒すのが、一番手っ取り早い。
「人並みです。嗜む程度で。はたけ先生は強そうですね」
はたけ先生と呼ばれ、少々むっとする。
「ええ、それは。ナルトぐらいの時から付き合いで飲んでたんでね」
すると何故かこの中忍、悲しそうな顔をした。
しかしそれはすぐに消えたが。
イルカは人並みに飲めると言いながら、コップ半分のビールで顔が赤い。
こりゃすぐに落とせそうだと、心の中でいやらしい笑いを浮かべた。


しばらくして、女将がさり気なく栄養バランスに気を遣った肴を運んできた。
料理が来るまでの時間も、配膳される間も、迂闊にも本来の目的を忘れそうなぐらい穏やかな時を過ごしてしまった。
そして今、カカシは心地のいい緊張感を味わっていた。
トクトクという自分の心音が聞こえる程度の。
「恋人とかはいないの?」
目は料理に向けたまま、イルカを見ずにさらりと言った。
「はぁ…?いませんけど…?」
「ふーん。淋しくない?」
訝しむイルカを余所に質問をぶつける。
「淋しい…?。うーん、そうですね…、あえて言うなら」
イルカは一度言葉を区切り、なぜか苦笑した。
「淋しさに慣れてしまった事の方が淋しいです」
今は生徒がおりますので…、と潔い笑顔を見せる。
「はたけ先生こそ、こんな時間にこんな所でこんな男と一緒にいたら彼女が可哀相ですよ?」
今のカカシに特定の女はいなかったが、不思議と無意識にそれを隠していた。
「そうですね、そりゃぁ怒られるかも」
イルカの顔色を伺いつつも苦笑してみせた。


「で、はたけ先生、ナルト達の事って、何ですか?」
日本酒を飲ませたので呂律もアヤしく、イルカはこの短い質問を出しただけで何度か息継ぎをした。
(…なんか…イイ感じ…)
些細な、本当に些細なイルカの体裁にカカシは煽られる。
「ああ、あれ冗談。ナルトは関係ありませんよ。俺がアンタと過ごしたいと思っただけ」
イルカはここまで飲まされて、やっとカカシを訝しみ始めた。
難しい顔をしている。
「オレ、よく鈍いと言われるので、何か気に障る事を言っていたのなら謝ります」
この中忍、笑えないほどオメデタイ頭をしている。
鈍いというのは謙遜でなく真実のようだ。
「お説教は有り難いと思っておりますので」
中々良い心掛けを持っている。さすが教師と言うべきか。
「説教なんてとんでもない。俺はそんな偉い人間ではないのでね」
イルカは腑に落ちない色濃厚で、無言に睨んできた。
「ではなんですか。言いたい事があるなら、はっきり言って下さい」
頬を染めて、アルコールで潤んだ瞳で睨まれたって、こちらが煽られるだけだというのがわからないのか。
「実は…」
ゴクンと唾を飲み込み、イルカを見つめた。
適度に潤んだ瞳。
赤い目元。
酒と肴で艶めく唇。
箸を持つ指先。

ガタン!ガシャン!

「…っ…!」
辛抱利かず、とうとうテーブル越しのイルカに飛び掛かった。
「なっ!?」
驚き方が判りやすい。
こんな忍者もいるものかと笑みを浮かべた。
「こういうこと」
笑顔を崩さずに馬乗りになる。
「…はたけ上忍、痛いです。離して頂きたい」
カカシの胸はドキドキ煩い。
反して、イルカの声は冷静。
しかし、イルカの表情は緊迫している。
…強がっているのか。
左手でイルカの両腕を一纏めにし、脚の間に体を入れる。
膝と右腕で自分の体をを支えながら、しっかりとイルカと目を合わせた。
「アンタさぁ、夜道で襲われた事とかない?」
「ありませんっ」
「コンパで男に迫られた事は?」
「…ありません」
答えるまで間があった。
「退いて下さい。このような行為を強要される謂われはありません。…ひゃっ…」
首を一舐め。
「強がっても無〜駄。…大人しくしな」
カカシの顔からおふざけが抜け、押さえ付ける手に力が篭った。
すると、途端にイルカの表情が変わった。
歴然とした力の差を感じたのだろう。
「…っやめて下さいっ…」
顔を背け、カカシから少しでも離れようとする。
「…っやめて…下さ…っ…」
蓄まっていた涙がイルカの頬を伝う。
「…いや…だっ」
恐怖のせいか体が震えている。
瞼までも。
「やめて下さい、よ…はた、け先生…」
イルカはボロボロと涙を零し、ズルズルと鼻水を啜っている。
「お願いですからっ…っぐ…」
哀しい目を薄く開け、必死にカカシの表情を窺おうとしている。
「……」
イルカは完全に怯えていた。
今この間も眉間に皺を寄せ、涙と嗚咽を堪えようとしている。
「……」
「た…助け…て…ひっく」
「……」
そんなイルカを見ていたら、自然とカカシの性的な興奮が治まってきた。
力を緩め、ゆっくりとイルカから離れる。
イルカと一定の距離を作り、自分を客観的に省みた。
すると、カカシはもうそこから一切動けなくなった。
「はたけ先生…」
カカシが動けないのをいいことに、警戒しつつもイルカが離れる。
「どうしたんですか急に…」
鼻を啜り、目元を拭った。
カカシはイルカを凝視して固まったまま。
「足りないかもしれませんが」
すっかり気落ちした声音でイルカが御膳の上に金を置いた。
そうして、肩を落としトボトボと部屋を出ていった。
カカシはイルカが去ってからしばらくして、ようやく体が動いた。
ごろりと仰向けなり、天井の木目をボーっと見つめた。
「はぁ〜…」
ひどく後味が悪い。
こんなの初めてだ。
何か腑に落ちない。
「後悔…?」
自分よりも弱者に何故…。
ははは、と乾いた笑い声を上げる。
「俺ってケダモノ?」
イルカの怯えきった顔が頭に焼き付いている。
イルカを泣かせてしまった罪悪感と泣き止まない事への焦燥感。
あれほど哀しい顔で泣かれて、その二つが一気に押し寄せてきて何も出来なくなってしまった。
「はぁ…」
改めてため息を吐く。
遠くに響く店の賑わいが、個室に一人取り残されたカカシをふわりと包んだ。





カカシが下級者の人権を尊重しない人種だとは思わなかった。
顔のほとんどを隠した怪しい身成りに奇天烈な発言、やる気の無さそうな姿勢。
印象はよろしくなかったが、子ども達を見つめる目は信頼に値するものだったはずだ。
だから不審に思いながらも誘いを受けた。
まさかカカシがあれほど軽い人間だとは、考えてもいなかった。
変わった人だとは思ったが、悪い人ではないのだと。
きっと、男でも女でも拘りが無い人間なのだろう。
もしかすると、子どもでも老人でもいいのかもしれない。
無節操な人間。
それとも上忍とは、そういう様々な事象を超越した存在なのだろうか。
まだ止まらない涙は、暗い夜道を言い訳に見て見ぬ振りをする。
泣きたくないならカカシの事など考えなければいい。
ただ月明かりの下で家に帰れば。
だが、強烈なインパクトで残る鮮明な記憶は、中々頭から離れない。
気を逸らそうとしても巧く出来ず。
「…はぁ…、っく…」
ため息を洩らしたら嗚咽が付いて来た。
泣き過ぎると、明朝は腫れた目で出勤しなくてはならない。
勿論、そんな事は心得ているが。
男の尊厳が踏み躙られる事がこんなに辛い事だったとは知らなかった。
「ああ…、…っく」
呻くたびに零れる泣き声は敢えて無視した。
だって、いい大人が情けないじゃないか。


イルカは家に着くなりベットに横たわった。
まだカカシの事が頭から離れない。
忘れようと、ふるふる頭を振り、目を閉じたら、いつの間にか意識を失った。


一夜明け、朝になってもカカシの事は頭から離れていなかった。
あまつさえ、夢に出て来たような気もする。
いや、昨日の出来事を夢だと思いたい為の幻だろうか。
起床して、洗面所で顔を見たとき、情けなさと悔しさで下唇を噛んだ。
案の定腫れた目元を少しでも誤魔化すために、氷水のグラスを閉じた瞼に当てた。
出勤するぎりぎりまで冷やし続け、なんとかそれらしくなった。
それは幼い頃から変わらない目の冷やし方だった。
硝子のコップに氷を入れ、コップを直接目蓋に当てる。
効果抜群のその方法は、泣きながらやっても威力を発揮してくれた。
両親を亡くしてから暫らくは常に氷がないと不安で、毎朝冷凍室に水を入れて外出したものだ。
夜に泣き続けても、翌朝には誰にも気付かれないように。
食欲はなかった。
決して欠かさない朝食だから、一応作りはしたものの、体が受け付けてくれなかった。
仕方なく、ラップを掛けて冷蔵庫へ移した。
その足で玄関へ行く。
「いってきます」
当然聞いている相手は誰もいない。
しかし何の区切りもなく家を空けるのが淋しくて、いつしか身につけた習慣だった。
目には見えなくとも、すぐ傍で聞いているかもしれないという馬鹿馬鹿しい理由で。
昨夜のことでイルカの生活リズムが崩れた。
目を冷やすのも、朝食を摂らないのも、昔に思いをはせるのも。
今まで無理にでも保ってきた調子が狂っていく。
















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2002.09.01