勘定をすませ、予定外の独り歩きに溜め息が洩れた。 こちらから誘っておきながら、イルカに料金まで払わせてしまった。 「はぁ…」 それにあの強姦まがいの行為。 元々そういう事が目的ではあったのだが、もう少し穏便には出来たはずだ。 己の自制心のなんと弱いことか。 里を命懸けで護る上忍がこんなではいけないだろう。 原因を考える。 まず、飲みに誘った一言目。 『今夜は暇か』と威圧的に声を掛けた。 これはいいだろう。 特出すべきは、イルカに『はたけ先生』と呼ばれるたびにムッとしていた事。 あの時は、ナルト達もカカシ先生と呼んでいるのに何故イルカはそう呼ばないのかと不信に思った。 確か、それでムッとしたはずだ。 店に入ってからも呼び方は相変わらずで、当たり前だがムッとした。 その辺りから既にペースを乱されていたのか。 気が付けば、らしくもない暴走。 …自分なりに分析してみたが。 自分で自分をコントロール出来ていないという事なのか。 何にせよ、明日受付でイルカに会うのが憂欝なのは確かだった。 翌朝、体は眠ったことで余計疲れていた。 何度も目覚めて、その度にイルカのことを考えた。 曖昧な意識の中で、イルカはひどく優しかったり、敵を見るような目でカカシを睨んできたりした。 そして、普段の彼からは想像できないような冷たい目をしてこう言うのだ。 『俺のような里の道具は、あなた方の道具でもあるんですね』 いつでも穏やかで前向きなイルカが…。 すぐに目が覚め、額には嫌な汗が浮かんでいた。 上忍歴も短くはない自分が、精神的に追い詰められている。 未熟なんて言葉は、とっくに縁がなくなったと思っていたのに。 考え出すときりが無く、底無し沼の様相を呈した。 「…やめた」 イヤになり、とうとう一人ごちる。 イルカのことと自分のことは、もう何も考えたくない。 しかし大人の事情など露ほども知らない子供達は、いつも通りイルカの話をしていた。 イルカの名を聞くと嫌でも昨夜の事を思い出してしまうが、任務を優先させるよう、無理矢理頭を切り替えた。 今日の任務は田んぼの用水路舗装。 体力作りとチームワークを養える、中々為になる仕事だ。 ナルトは得意の影分身で頭数を増やし、サクラの支持する方へ溝を掘っていく。 サスケはサクラの微調整とナルトの掘り返した土の後始末に従事した。 依頼主への挨拶と子供達への指示を出せば、先生の仕事は一時中断する。 Dランク任務のいいところはそれだ。 いつもと同様、過ごしやすい日陰でのんびり居眠りに勤しむ。 目を閉じれば先程の子供達の驚いた顔が浮かんだ。 『明日は雹と槍と雷が一気に降るのかしら』 『あー!カカシ先生だー!朝会ったの初めてだってばよー!』 『……』 無言のサスケも、目を見開きあからさまな動揺を見せた。 「くくっ」 声を出して笑う。 現実から目を背けて。 今のカカシにとって現実とは、イコールでイルカのことだ。 ふとした切っ掛けで浮かぶイルカの表情、声、仕草。 思い出すたびに胸が、きゅう、となるのだ。 痛くはない。苦しくもない。 逆に、ふわりと暖かくなり、切なくもなる。 ただ、昨夜の全身で怯えるイルカを思い出すと、眉間に皺が寄り頭の内側が痺れるのだ。 今日もこれから受付へ行かなければならない。 Dランク任務は良くも悪くも即日報告が基本。 よって、イルカに会うかもしれないと考えると嬉しいような避けたいような。 どんどんカカシの思考がイルカで満たされていく。 最後にカカシが任務完了の合図を出し、一日がかりの作業に区切りを付けた。 「カカシ先生!早くイルカ先生んとこ行こ!今日は疲れたからイルカ先生にごはん作ってもらおー!」 へぇー、ナルトってそんなにあの中忍と仲いいんだ。 あの人料理上手そうだしな。 「……」 と、不意にイルカに向いていた意識。 気付いた途端、イヤになった。 「じゃ、報告書の処理行こうか」 何もなかったように声を掛け、自分でも掴みきれない思考に背を向けた。 受付ではイルカがいつもの笑顔で、全ての作業員に労いの言葉を掛けていた。 いくつかある窓口で、彼の窓口だけやや長い列ができていて、面倒なので他の窓口に行こうとしたらナルトに袖を掴まれた。 ばれないように溜め息を吐き、なら仕方ないと喜び半分でそこに並んだ。 そして気付く。 同じように下忍に袖を掴まれ、イルカの窓口に並ばされる上忍達に。 これを人徳というのだろうか。 些細なことだが、イルカという人物の一片を垣間見た気がした。 カカシには持ち得ないもの。 自分の持っていない物を持っている人には、自然と憧れを持つのかもしれない。 漠然とだが、そう思う。 「憧れてんのか…」 誰にも聞こえない呟きは、自分の中だけで静かに消えていった。 「よう!ナルト!仲良くやってるか!」 傍らの小さな少年へ向けられる視線は優しい。 無意識にこちらが見つめていても、イルカは気付きもしない。 教師と元教え子の間に入ることも出来ず、蚊帳の外で報告書を携え立ち尽くしていた。 「ナルトはよくやってますよ。あなたもいい加減、子離れしたらいかがです」 悔しさに意地の悪い言葉を投げた。 一瞬で変わる表情。 そしてすぐにイルカが忍の顔に戻った。 「…失礼致しました。報告書、お預かりします。お疲れ様でした」 一方的に会話を打ち切られ、当然の報いかと諦めながらも後悔した。 その場に留まれる理由もなく、そそくさと踵を反した。 傷付いた顔をしていた。させたのは自分だが。 だって悔しかった。 ナルトには無償で向けられる笑顔、気遣う言葉、優しい眼差し。 どれか一つでいいから向けて欲しかった。 どんどん深みにはまっていく自分が見えているのに、カカシにはどうすることも出来なかった。 休憩をとるために来たアカデミーの食堂。 イルカは手近な空いている席に腰を下ろした。 「ふうー…」 目を閉じれば、カカシとのやり取りを鮮明に思い出せる。 アカデミーを卒業した下忍を気に掛けるのは子離れ出来ないということなのだろうか。 ひどくショックだったのは確かだ。 なんていうか、あの上忍から非難されると自分の根底を否定された気分になるのだ。 「あー!!イルカ先生発見〜!!」 声だけでわかる元気な奴が、入口の方で大声を出した。 「ナルト!どうした?」 ナルトは鼻の下を人差し指で擦り、へへっと笑った。 「あのさ!今日ってば久々に、イルカ先生の手料理食べさせてもらいたいってばよ」 「ははは。何だ、そんな事か。よし、わかった。とっとと仕事切り上げてくるから、その辺で待ってろ」 「やった!イルカ先生、何作ってくれんの?!俺、腹減ったってばよ!」 満遍の笑みがイルカに向けられた。 「それは買い物に行ってからだ。一緒に行こう」 「おう!じゃ、玄関で待ってるってばよ!」 ナルトは手を振り、食堂を出ていった。 報告書を提出した後、特にする事も無かったので、カカシは上忍控え室を訪れた。 そこには煙草を咥えてソファーに踏ん反り返っている髭面の男がいた。 「よう」 どちらともなく呼び掛けた。 ふうー、と一つ煙を吹くと、アスマが言った。 「『子離れしたらいかがです』ってお前、そんなにイルカが気にいらねぇのか?」 出会い頭にイルカの名を出され、ドキリとした。 「別に…」 「じゃぁ、昨日イルカを食っちまったワケか?」 寝た翌日に厭味を言うという、一度体を重ねただけで勘違いする女を一太刀するための、過去に何度か使った手口だった。 アスマはその事を指したのだ。 「いや…」 「くくくっ。歯切れが悪いじゃねぇか」 曖昧なカカシの態度は、案に何かあったことを裏付けていた。 そんな事は付き合いの長いアスマにはすぐにわかった。 「あの純情先生と何があったんだよ。言ってみろよ、カカシ」 「関係無いだろ」 「関係あるさ。ヨカったんなら俺も戴こう、ってな」 アスマがわざとらしくイヤらしい笑みを浮かべた。 「!・・・。やめとけよ」 一瞬焦ったが、アスマが本気でないとわかり、とりあえず静止の言葉を言った。 イルカがどこかの男に抱かれる様を想像すると、異常に胸がざわついた。 「ほう?」 「だって、あの人…」 何を言おうとしているのか、自分でもよくわからない。 「やめとけって。だって、身体が動かなくなるんだ」 「は?」 「だから、あの人抱こうとして、抵抗されて、俺の身体が動かなくなったんだよ」 アスマは顎髭を摘まみ、何か考えているようだった。 「で、お前はどうしたんだよ?」 「一人で帰った」 すると、入口に人の気配がした。 「昨日の話かしら?」 紅が興味あり気に会話に入ってきた。 アスマが半笑いで今までの話を紅に伝えると、彼女は驚いた顔をした。 「じゃ、イルカ先生無事だったのね」 そしてまじまじとカカシの顔を窺った。 「あら。…ふーん」 見透かされるような目で見られ、カカシの眉間に皺が寄る。 「何だよ」 そして紅まで薄笑いを浮かべて、こう言った。 「一人前に、恋する男の顔ね」 カカシは口を開けたまま呆然とした。 頭の中がぐちゃぐちゃになりながらも、さっきイルカに会った受付へ向かった。 紅に恋をしていると言われ、今までの感情すべてに合点がいった。 泣き顔を見て体が動かなくなったり、思いを馳せて切なくなったり、会えると思ったら嬉しかったり。 とにかく、この思いを伝えたいとそう思った。 受付に近づくにつれ、心拍数が上がってきた。 ドアに手を伸ばし息を飲み、心を決めてゆっくりと開いた。 「……」 居れば正面に見えるイルカがいない。 心の中で細く息を吐いた。 今日は帰ったのか。 いや、それより、今会って、自分はイルカに何を言うつもりだったのだろう、と考えた。 昨日の強姦魔はあなたの事が好きでした、とでも言うつもりだったのだろうか。 カカシはどっと疲れを感じた。 自分がイルカに働いた無体を棚に上げて何を。 肩の力が一気に抜け、たった今来た道を今度は自宅に向けて歩いていった。 家に着くと、外履きも脱がず、そのまま玄関に倒れ込んだ。 冷たい床に頬をつけると、じわっと込み上げてくるものがあった。 「イルカ先生…」 もっと早く一目惚れした事に気付けたらよかった。 今思えば、自分の体は正直にイルカを好きになっている事を現していたのに。 心はそんな事、露ほどもわかっていなかった。 過去に散々遊んできたツケが、今返ってきたのかもしれない。 こんな時はどうしたらいいのだろう。 そういえば、まだ謝ってもいなかった。 昨日の今日で自分がイルカに言ったのは、あの厭味だけだ。 そう思ったら、またじわっと込み上げてきた。 本当に何をやっているのだろう。 唇を噛む。 「ごめんね…」 こんなところで言っても意味の無い謝罪を、せめて自分には聞こえるように声に出した。 |