月が隠れて暗い夜。 やっぱり雨が降り出した。 「あの〜、イルカ先生」 「何ですか」 イルカ宅の風呂から上がり、濡れた髪を太陽の匂いのするバスタオルでガシガシ拭きながら、その後姿に声を掛けた。 「怒らないで下さいよ」 「別に怒ってません」 イルカはこちらには振り向きもしないで、ひたすら台所に向かっている。 事の始まりはこうだ。 下忍達との任務を終え、解散し、自分だけが報告の為に受付所へ訪れた。 ただでさえ寒期が始まるこの時期は日が暮れるのが早いのに、今日は天気も悪く、到着した午後6時には辺りはすっかり暗くなっていた。 悪天候のせいか、受付所にはこの時間でも人がまばらで、イルカの前には数人が並んでいるだけ。 すぐに順番が回ってきて、イルカに報告書を差し出した。 「お疲れ様でした」 他の忍者に向けるものとは違う、特別な笑みを送ってくれた。 毎日の事ではあるが、嬉しかった。 この場でイルカの手を握り、目を見つめながら愛の言葉を囁きたい衝動が湧き起こる。 これも毎日の事であるが、その衝動を心の隅にぎゅっと押し込めた。 「イルカ先生、今日夕飯一緒に食べませんか?」 イルカは報告書から顔を上げ、少しだけ目元を染めた。 「あ、はい。あの、今日は茄のお味噌汁を作ろうと思っていたので、カカシ先生を夕食に誘おうと…」 「ははっ。オレ達、気が合いますね」 歯痒くて、自分まで顔が赤くなった。 照れ隠しに、人差し指で頬を掻く。 「今日は受付が7時までなんで、先に行っててもらえますか?買い物は済ませてありますから」 付き合ってからすぐに、お互いの家の鍵を渡しあった。 「あ、じゃぁ、先に帰って風呂掃除して、湯を張っときますよ」 「ありがとうございます。よろしくお願いします」 夫婦のような会話だなぁと思った。 報告書へ目を移したイルカの耳が赤くなっていた。 イルカも同じ事を思っていたのかもしれない。 そして。 イルカと別れて、少しぐらい寄り道をしても大丈夫だと思ったのが悪かった。 のんびり歩いていると雨が降り出したが、まあいいかと、そのまま目的地へ向かった。 「雨で体が濡れると惨めな気持ちになるんだよなぁ」 更に腹が減っていると、惨めさは倍増する。 雨には特別な思い出があるのだ。 そう。濡れたままでいるのには、下らない理由があるのだ。 惨めさを感じた後に幸福を感じると、その嬉しさは何倍にもなるという事を知ったから。 あれは夏に、イルカを旅行に誘おうと頑張っていた頃。 自分は長期休暇直前の任務に出、予定より長引いてしまった事もあり、益々イルカの事で頭が一杯で。 任務自体は完了に至り、しかし、仲間を数人失ったという厳しい結果が残った。 そんな中、自分は好いた相手の事ばかり考え、一体何をやっていたのかと自責の念に囚われた。 血と汗でドロドロの里への帰り道、あの時もスコールのような大雨に当たった。 降っている時間は短かっただろうが、びしょ濡れの髪が頬に貼り付き、辛うじて体に残っていた仲間の血も流されてしまった。 雨が止み、霞みがかった森を懸命に走った。 公私共にいたたまれない思いを抱え、身動きが取れなくなるという感覚を久方ぶりに味わったのだ。 戻ってすぐイルカに会い、ゆっくりと話し合った。 すると、私的なわだかまりが溶け、不思議な事に、任務での色々な負の感情もどこかに飛んでいた。 結局、夏休みの旅行の話はイルカに仕事が入ってしまった為、キャンセルになってしまったが。 あの時の幸福感は口に表わせないほどのものだった。 寄り道の目的地、木の葉の里の慰霊碑の前に到着した。 その頃にはずぶ濡れになっていたが、別に構うことはない。 そういえば、今日は花を持って来なかった。 「…」 碑の前に立つと、様々な思いが渦になって押し寄せた。 そうするともう、その場から動けなくなるのはわかっていた事なのに。 * * * * * 「イルカ先生、ごめんね。本当にゴメン」 食事とその後片づけを済ませ、テーブル越しにイルカと向かい合った。 テーブルには温かいミルクティーの入ったカップが二つ。 「どこに行ってたんですか?俺の知らない所ですか?」 イルカの顔が曇った。 「う、浮気とか、そういうのじゃないですからねっ」 「別にそんな事…」 とは言うものの、イルカの目には薄っすら涙が浮いていた。 浮気疑惑を掛けられても、過去の振る舞いを知られてるので、否定しても信用してもらえないのだ。 それは自分が悪いので、今出来るのは必死になってイルカの信頼を得る事。 そんな振る舞いやそぶりをしないように、態度で示すしかない。 しかし、本当の事を言ったところで、わかってもらえるだろうか。 「…笑わないと約束してくれるなら、本当の事を言います」 「笑う…?」 イルカが手の甲で目をごしごし拭った。 「あのね、惨めごっこした後って、幸せが二倍に感じるんです」 「…はい…?」 イルカは意味がわからない事を言っていると思ったのか、それ顔に出した。 宇宙人と対面しているような、そんな顔までして。 「その、だから、あの、わざと雨に濡れて自分を追い詰めてたんです」 涙で赤くなったイルカの目が見開くのがわかった。 一つ溜め息を吐き、目を閉じたイルカは肩を震わせた。 笑われたのかと思った。 もしくは、また泣いてしまったのかと。 「アンタは馬鹿ですか!!そんな事して風邪でも引いたらどうするんです!!」 笑われはしなかった。 泣いてもいなかった。 けど、怒られた。 「子供じゃないんですから、それくらい自分で判断できるでしょう!」 「だって、イルカ先生がオレの好きな茄の味噌汁作ってくれるって言うから。これから起こるとわかっている幸せを、もっと深く濃く感じようと思って」 イルカのお説教が止まった。 自分は拗ねたようにテーブルに突っ伏す。 イルカが小声で言った。 「…もう…」 その声は怒っていなかった。 イルカがミルクティーを飲む。 その一瞬で、一つ閃いた。 「あ、行きましょうか」 「は?」 しまった。 また訳のわからない事を言ってしまった。 イルカの表情が変わる前に言葉をつなぐ。 「旅行。夏休みに行けなかった旅行、冬休みに行きませんか?」 「いいですね」 イルカがへにゃっと笑った。 それを見て、自分までへらへらした。 |