(もしかしなくても寝呆けてたかな) 
         
        目の焦点が定まらないイルカも可愛かったなとごちながら、カカシは誰もいない家路を歩いていた。 
         
        カカシは明日から五日間の予定で、新しい任務に出掛ける。 
         
        その前に彼の顔を見ることが出来てよかった。 
         
        明日の朝受付へ寄り、終わったばかりの報告書を提出してから出発するつもりで、そのときに逢えたらいいと密かに思っていたのだ。 
         
        しかし、イルカが家に来てくれるし、どういうわけか自分もイルカの家に行くことになった。 
         
        あまつさえ、告白までしてしまった。 
         
        小さく笑う。 
         
        「あ〜、幸せだな〜」 
         
        ただ暢気にそう思った。 
         
        そしてこの幸せ気分が長続きすると思っていた。 
         
        しかし、現実はそんなに甘くなかった。 
         
         
         
         
         
        * * * * * 
         
         
         
         
         
        7月22日、午前5時45分。 
         
        いつもより早く目が覚めてしまった朝。 
         
        昨晩の涙のせいで鼻が少しグズグズしていた。 
         
        泣いた次の朝はこんなもんだろう、と高を括る。 
         
        なんとなく食欲も無かったので、一通り身仕度を整えてから出勤することにした。 
         
        「行ってきます」 
         
        誰もいない家にそう言うようにも何時からだったか。 
         
        ドアを開けるとそこには、夏の朝の清々しさが満ちている。 
         
        イルカはそれを胸いっぱいに吸い込んだ。 
         
         
         
         
         
        教員室には、案の定誰もいなかった。 
         
        普段から一番に出勤しているイルカにとってはいつもと変わらない風景であったが。 
         
        「掃除でもするか」 
         
        授業で使う教室と違い、教員室は休み前の大掃除をしていない。 
         
        つまり、汚くはないが綺麗でもない。 
         
        自分は潔癖症ではないけれど、掃除は好きな方だ。 
         
        綺麗になった部屋を見ると、程よい達成感が味わえるから。 
         
        そして、イルカが机を拭く頃になると、同僚がちらほらと顔を出し始めた。 
         
        「おはようございます」 
         
        一人一人に軽く微笑んで挨拶した。 
         
         
         
         
         
        * * * * * 
         
         
         
         
         
        カカシは一人ウキウキで受付へ歩いていた。 
         
        片手には昨日頑張った報告書の山を抱えて。 
         
        だってしょうがないじゃないか。 
         
        今日からの任務が終われば、イルカと二人で旅行に行けるのだ。 
         
        やっと一ヶ月半の苦労が報われる。 
         
        更に更に、昨夜の告白の返事を聞けるだろうと、期待に胸が膨らみ放題だ。 
         
        「イルカ先生!おはようございま〜す!」 
         
        周囲の人間が驚くほどのテンションの高さ。 
         
        「あ、カカシ先生、おはようございます」 
         
        カカシとはまるで対照的なトーン。 
         
        気分が沈んでいる様子で。 
         
        それが気にはなったが、今は自分の書いた報告書をイルカに提出して、彼から特級の笑顔付きで労いの言葉を掛けて欲しかった。 
         
        告白の返事も。 
         
        「すいません、これ前回までの報告書です。溜めてしまって」 
         
        「…これだけ多いと確認するのにも時間が掛かりますので、何か不備があったらお呼びします」 
         
        そう言ってイルカは書類に目を移した。 
         
        事務的過ぎるそれに頭の中が急激に冷える。 
         
         
         
        目を合わせてくれなかった。 
         
        笑顔も労いの言葉も何もなかった。 
         
         
         
        「まだ何か?」 
         
        イルカは報告書から目を離さずに言った。 
         
        様子がおかしいのはわかっていたが、これでは全くの他人と話したような感覚だ。 
         
        イルカは顔を上げてくれないので表情が読み取れない。 
         
        そして昨日の出来事を思い出す。 
         
        書類整理に追われて無視してしまった事を怒っているのだろうか。 
         
        旅行に誘ってくれたのにいいかげんな返事をしてしまったから悲しんでいるのだろうか。 
         
        「イルカ先生、昨日の事…」 
         
        イルカの動きがぴたっと止まった。 
         
        「旅行の事なんですけど…」 
         
        イルカはまだ動かない。 
         
        「イルカ先生、実は俺…」 
         
        ゆっくりとイルカが顔を上げてこう言った。 
         
        「昨日は申し訳ありませんでした。出過ぎた真似をしました」 
         
        やっと自分を見てくれたイルカの目は少し赤くて、薄っすら隈も出ていた。 
         
        「そんな事ないです、嬉しかった。本当は俺が先に旅行に誘おうと思っていたぐらいです」 
         
        不意に向けられたイルカの諦めたような顔が胸に刺さった。 
         
        「ありがとうございます…」 
         
        声が掠れている。 
         
        自分の言葉を慰めと捉えたようだった。 
         
        「カカシ先生…。夏休みの旅行って俺には特別な意味があるんです」 
         
        イルカはそれ以上言わなかった。 
         
        特別…?どういう意味なんですか?、と聞こうとしたら後ろから自分を呼ぶ声がした。 
         
        「おい、カカシ何やってんだ!早くしろ!」 
         
        「イルカ先生…、俺、五日間の予定で任務があります。出来るだけ早く終わらせてきますから、戻ってきたらゆっくり話をしましょう…!貴方は寝ぼけていたかもしれないけど、昨日の言葉に嘘はありません!」 
         
         
         
         
         
        * * * * * 
         
         
         
         
         
        カカシは任務を共にする仲間に引っ張られていった。 
         
        未練たらしくずっとこちらを見ながら。 
         
        イルカは顔に血液が逆流してきたように真っ赤になっていた。 
         
        今朝見たと思っていた夢は夢じゃなかった?! 
         
        いや、でも、だって…! 
         
        「うわっ・・・」 
         
        夢を思い出すと耳や首まで真っ赤になった。 
         
        同僚が変な顔をしていたので慌てて報告書に目を移す。 
         
        しかし頭の中には何も入ってこない。 
         
        それどころか、この書類がカカシの書いたものだと意識した途端に、また恥ずかしくなってきた。 
         
        カカシ先生って俺の事好きなのか?! 
         
        えっ?! 
         
        落ち着け!冷静になって… 
         
        俺はカカシ先生が好きで、カカシ先生も俺が好き…? 
         
        さっき彼は『帰ってきたら話をしよう』と言っていた。 
         
        何を話すんだ?どこから説明する?彼に思いを伝えられる? 
         
        「わぁ…わぁ…」 
         
        心臓がドキドキいって、周りの音が聞こえない。 
         
        あと五日…。 
         
        彼は五日間の任務だと言っていた。 
         
        それまでに色々と心の準備をしておかなくては。 
         
        帰ってきたらまず、自分の気持ちに忠実に、カカシが無事に戻ってこられた事を喜ぼう。 
         
        そして、労わるように『お帰りなさい』を言いたい。 
         
        あと自分の誕生日の事も話したい。 
         
        両親の事も。 
         
        少しだけ眉間に皺が寄る。 
         
        夏休みは嫌いだった。 
         
        好きだったから嫌いになった。 
         
        まだ幼い頃の自分が、両親を亡くしてから初めて迎えた夏休み。 
         
        何をしていても、何もしなくても、ただ涙が溢れた苦い記憶。 
         
        もう成人した今でも胸が痛む。 
         
        でも、そんな事も色々。 
         
        ああ…早く帰って来て…。 
         
         
         
         
         
        * * * * * 
         
         
         
         
         
        仲間と共に森を駆けている今でも、任務に集中できずイルカのことを考えてしまう。 
         
        イルカの笑顔を見られずに任務に出ることになったのは、一体いつ以来だろう。 
         
        目が赤かった。 
         
        昨晩は泣いていたのだろうか。 
         
        胸がざわついて、頭がごちゃごちゃだ。 
         
        別れ際に言ったが、彼とゆっくり話がしたい。 
         
        伝えたい思いがある。 
         
        聞きたい特別がある。 
         
        そのために今自分が出来ること。 
         
        「とっととこの仕事終わらせるぞ。俺は忙しいんだ」 
         
        一瞬も頭から離れない別れ際のイルカの表情を思い浮かべ、眉間に皺を寄せる。 
         
        出来るだけ早く里に帰れるように努力をしよう。 
         
        イルカのために今自分が出来ることを。 
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
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        2002.08.31 
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