少し様子のおかしいカカシを心配したイルカは、カカシの一日休暇に合わせて自分も休暇を取っていた。

そのことはカカシに言っていなかったが、久々の休日ぐらい家に居るだろうと踏んで、カカシ宅/玄関前に来ていた。

中からは近寄りがたい空気が漏れていたが、心配する気持ちが勝りゆっくりドアをノックした。

すると、ドアに隔たれたカカシのくぐもった声で『開いてるよー…。どーぞ…』と聞こえた。

何か他のことに気を取られているような、空ろな声音だった。

更に不安を煽られたイルカは緊張気味に部屋に入っていった。

カカシを見付け近寄っていくと、イルカは目を見開いた。

「カカシ先生…」

カカシが机に向かって姿勢良く正座し、何か書類を作っていた。

「あの、カカシ先生、話がしたいんですけど、だ、大丈夫ですか?」

「…大丈夫ですよー」

カカシは目を机に向けたままの気の無い返事。

イルカはひたすら熱心に仕事をする彼を見て少し安心した。

要らぬ心配だったようで何よりだ。

そして、カカシが無心に報告書を書いているのをもう一度確認し、今がチャンスかもしれない、と思った。

カカシには黙っていたが、イルカには何ヵ月も前から言いたいことがあったのだ。

「カカシ先生…、あの、夏休みに、一緒に旅行、行きませんか…?」

カカシは聞いているのかいないのか、俯き加減で頬を紅く染めているイルカに気付かない。

「…旅行ですか…行きたいですね…」

まるで、夢の中で会話をしているような曖昧な答えだった。

イルカはここぞとばかりに、具体的な部分へ踏み込んだ。

事後承諾ではないが、確たる証拠を作ってしまおうと思ったのだ。

「カカシ先生は何処か行きたい所はありますか?海とか山とか温泉とか…?」

相変わらず目は書類から離れず、ペンを握る手も絶え間なく動いている。

「…どこでもいいです…アンタの好きなトコで…勝手に…決めて下さい…」

カカシの口から出てくる言葉を一生懸命聞き取ろうと必死だったが、それを聞き、はっと我に返った。

(勝手に…)

「カカシ先生、気が乗らないなら無理しなくていいですからね…」

カカシは、すっかり意気消沈のイルカにすら目を向けない。

「…そうですか…いいんですか…」

「はい。…お邪魔しました。失礼します…」

イルカは自己嫌悪に陥った。

(あれほど仕事に集中してる人に、あんなこと言うんじゃなかった)

肩を落とし、自分の情けなさに泣きそうになるのを必死に堪え、カカシの家を後にした。





* * * * *





ふと気付くと、辺りは真っ暗になっていて、未記入の報告書もあと一枚になっていた。

「あ…なんか…イルカ先生が来たような…」

そして、夢を思い出すように自身の記憶を探った。

「たしか…、話がしたいって…」

何の話だ?

ん〜、と考え込んでしまう。

慣れない仕事に集中し過ぎて、他のことが疎かになっていた。

「あ!」

思い出した。

旅行の話だ。確か、海とか山とか言っていた。そして…

「夏休みに一緒に行こうって!」

夏休みに一緒に旅行しないか、と誘ってくれたのだ。

で、自分は何と答えた?

「オレ以外と旅行なんてやめて下さい、とは言ってないよなぁ…」

段々焦ってきた。

自分は何を言ったのか。

何かおかしな事を言っていなければ、イルカは帰らなかったと思う。

ここで仕事が終わるのを待っていてくれたはずだ。

つまり、イルカに変なことを言ってしまったという事だ。

(思い出せ…。思い出せっ…!)

「あ…」

勝手にしろ…って…。

「ああ!イルカ先生っ!」

カカシは頭を抱え、足をバタバタさせた。

イルカのことを思うと、じっとなんてしていられず。

もう遅い時間だが、今からなら、日付が変わる前に着けるだろう。

カカシはイルカの家へと駆け出した。





* * * * *





イルカは自宅の玄関を入るなり、別段汚れてもいない部屋の掃除を始めた。

部屋の隅々まできれいに。もちろん台所周りもだ。

次に風呂掃除。タイルのカビ取りまでして、いつでも入れるように湯も張った。

「次は…っ」

もうやる事が無くなってしまった。

しかし焦燥感は迫ってくる。

眉間に皺が寄る。

心のざわめきを誤魔化すために、何かを…。

縋るように辺りを見回しても何も無く、窓に目を向けるとすっかり日は沈んでいた。

一つため息を吐き、諦めて風呂場へ向かった。

脱衣所で服を脱ぎ、ピカピカのタイルの上をペタペタと歩く。

蛇口を捻り、まだ冷たいままのシャワーを頭から被った。

夏とはいえ、頭から真水を被れば風邪を引くかもしれない。

でも、そんなことどうでもよかった。

降り注ぐそれは、情けなさを増幅する効果があったが、温かくなるに連れて、徐々に気持ちが落ち着いていった。

落ち着いたら今度は、湯に溶けるような涙が溢れてくる。

「…くっ…」

目を堅く瞑り、眉間に力を込める。

(さすがに目上の方を旅行に誘うのは僭越すぎたかな…)

湯船でしっかり体を暖めてから風呂場を出ると、イルカの気分はやや向上していた。

髪を乾かし、明日の仕事に目を向けつつベットに入った。

明日はアカデミーで朝礼して、すぐに受付へ向かう。

午後からは野外での夏期特別演習だ。これはアカデミー生の希望者が受講するのだが、イルカのクラス以外の生徒も集まるので、前々から楽しみにしていた。

自分がこの演習の講師に決まった頃からずっと。

野外演習は子ども達の成長を確かめられるし、実際に体を動かすことで彼ら自身の今の限界を知ることも出来る。

何より、みんなが楽しくて嬉しくてしょうがないという顔をするのだ。

あの屈託のない笑顔達が浮かんできた。更に遡り、かつての教え子達の笑顔までも。

すると、連られてあの人の笑顔まで思い出してしまった。

「……」

口唇を噛む。

「ああ…」

ため息と一緒に憂欝も出てくれたらどんなに楽だろう。

カカシが好きだ。

彼も自分を好きだと言う。

他意がないから平気で口にして。オレがどんな思いで聞いているかなんて知られたくもない。

軽蔑されるのは…耐えられない。

言われるたび、その無邪気さに胸が苦しくなる。

本当はみっともなく彼の前で泣き崩れ、女々しくしがみついて、好きだと言って、もうずっと離したくない。

目から一粒の零が溢れ、もう寝てしまおうと弱音を吐く。

「好きなんだ…」

彼を思いながら眠れたら、せめて夢の中で逢えるだろうか…。





* * * * *





イルカは夢を見た。それはとても幸せな夢だった。

望んでいた愛の言葉を呆れるほど、恥ずかしいほど、何度も繰り返される。

『いつでもあなたと居たいんです』

『ずっとあなたに触れていたい』

『愛しているんです』

そして、冷たい温もりに抱き締められる。

『一緒に旅行、行きましょ?…ね?』

どうして急に旅行の話なんて…。

ああ、そうか。

自分がさっきその話を持ちかけたんだ。

「ありがとうございます」

夢の中で微笑む彼に、何とかそれだけ伝えた。















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2002.08.31