幼い頃、夢の中で黒いマント着た大人が、二つの辞書をイルカに手渡した。

それは闇に溶けるほど真っ黒い辞書と、光に溶けるほど真っ白い辞書だった。



「君が大きくなると、一緒に大きくなる辞書だよ」



曖昧な夢はそこで終わっていた。

翌朝目が覚めると、確かに二冊の辞書があり、それらは小さい手でも楽に持てるような重量だった。

小さいイルカは両親には内緒で、二冊を本棚に並べておいた。

そうして、なぜか何日もしないうちに黒い辞書だけ無くなった。

そして、白い辞書の方は少しだけ厚くなっていた。












人に指摘されて、最近になって初めて気付いた癖がある。

「イルカ先生って白色が好きなんですね」

今月からアカデミーの事務員として赴任した女性が、そんな事を言った。

「いえ、別に好きというわけでは」

その職員は意外そうな顔をしてこう言った。

「そうなんですか?いや、イルカ先生の持ち物に白い物が多かったので」



イルカはそれをきっかけに、身の回りにある白い物を調べてみた。

箸や茶碗等の食器類、シーツや枕カバー等の寝具、冷蔵庫や電子レンジ等の家電製品、本棚や机等の家具、などなど。

イルカ自身、想像以上だった。

別段白色にこだわって物を選ぶわけでは無かったが、25歳の今までこんなに白物が集まっていて気付かないなんて。

少なからずショックを受けた。

だが、悪い事ではないし、特別気を遣う事もないと判断し、それからも普通の生活は続いた。






* * * * *






中忍になったばかりの頃。



「前の持ち主には必要ないようなので、これを君にあげよう」



真っ白いローブを着た男が、闇に溶けるほど真っ黒い本をカカシに手渡した。

施しを受けたようで良い気分はしなかったが、直感が『持っていろ』と訴えた。



「これは完全なものじゃないから、大きくなったら半分を探すといい」



反射的に手を延ばし、決して離さないように指に力を入れた。

男がニコリと微笑んだ。



「やっぱり、君にはそれが必要のようだ」



そう言うと、男は音もなく空気に溶けて消えていった。

残ったのは、小さな黒い本だけだった。

前の持ち主?

半分を探す?

自分には必要?

疑問ばかり浮かんで、でも、答えを聞く相手はどこにもいなかった。














やけに鮮明だった夢は誰にも語られる事は無かったが、上忍になり暗部を経験した現在もはっきりと思い出せた。

当時はわからない事ばかりで、自分なりにこじ付けて答えを作った気がする。

誰かが使っていた本を、

半分だけその人がいらなくなったので、

それが必要な自分の所へ運んできた、と。

子供の考える事ではあったが、よく出来たものだと自讃した記憶があった。

幼いカカシは、夢についての検証をそれで終わらせた。

そして黒い辞書を得てからというもの、カカシは『黒色』に執着するようになっていた。

身の回りのものはもちろん、忍犬すら黒毛種ばかり。

家具も黒いので、部屋全体の印象も黒い。

その部屋の中に黒い服を着た自分がいるのだから、そろそろ闇に飲み込まれて全身が真っ黒になってもおかしくない。

長年『黒』に執着してきたカカシだったが、最近たった一つ、欲しいと思う【白い】ものを見つけたのだ。

それは遥か遠くに見える、たった一つの輝きだった。

あの人の周りの空気は、いつでも浄化されたように透き通っていて。

更に、持ち物の一つ一つからも清潔感が伝わってくるなんて。

どんな人生を歩んだら、あれほど清らかな人に成長するのだろうと思うほどだ。

この前はとうとう声を掛けてしまった。

任務明けで報告書を提出しに行った時だった。

『白いですね』と。

唐突にそんな事。

自分は疲れていたのかもしれない。

鼻に傷のある男は意味がわからないとばかりに、困った顔をした。

しかし、次にはこちらにニコリと微笑み、顔を下に向け、報告書の確認を始めた。

内心ではカカシは大変混乱していた。

なぜ初めて伝えたのが、あの言葉だったのか。

微笑まれた時に心臓の方から聞こえた、ドクッという音は何なのか。

この男の印象を一言で表すなら、あの言葉が正しいと思う。

だが、カカシの心が全て見えている訳はないので、本人は奇妙な言葉に感じただろう。

もっと、こう、当たり障りの無い言葉を選べば良かったものを。

男が俯いて報告書に目を通している間、一纏めにされている髪の結び目をじっと見つめながら、後悔ばかりが頭を過った。

そして男が顔を上げた。

『問題ありません。確かにお預かり致します』

事務的な会話が自然と途切れるが、その場から動こうとしない自分を見て、不意に男の両眉が下がった。

『…やっぱり白く見えますかね…?』

呟くようにそう言った。

予想外の反応に、カカシは会話の足掛かりを掴んだと思った。

『はい見えます。…何か…、何か特別な事をしているんですか?』

『いえ。だから自分では今まで気付かなくて』

人に指摘されてやっとわかったんです、と続けた。

男が苦笑した。

カカシはなぜか、男のそのはにかんだ笑顔にくらりときた。

『俺は黒く見えるでしょう?』

何気なく問うと、男は答えを言おうと口を開いた。

そこへ。



カカシー!!



この良い雰囲気を一掃する大声が受付に響いた。

空気を読めない、いつも間の悪いガイだった。

『こちらの報告書は受理致します。お疲れ様でした』

後ろから男の声が聞こえた。

彼なりに気を遣ったのだろう。

当たり前だが、突然打ち切られた会話。

せめて最後の答えだけは聞きたかった。



残念がったあの会話は、まだ記憶に新しい。

というより、あの男と交わした会話はあれだけだ。

他人との馴れ合いを好まない自分が、初対面の人間とあれほど和やかに話せたのは、ひとえにあの男の人柄ゆえだろう。

二、三度言葉を交わしただけなのに、離れがたくなった。

惜しくもこちらの都合で途切れてしまった会話だったが、次に話し掛けたら更に親しげに扱ってくれるかもしれないという期待が持てた。



そして今日、その期待を胸に報告書を携え、受付所を訪れた。

まだ昼という事で、人もまばらだ。

首を巡らせ、あの男を探した。

しかし、白さを放つ存在はどこにもいなかった。

今日は非番だったのかと思って、席にいる受付担当者に声を掛けた。すると、

「この時間はアカデミーで授業中です」

という有力情報が手に入った。

報告書をすぐに提出し、確認もおろそかに踵を返した。

弾む胸にも気付かず、普段は決して近付かないそこへ男を探しに向かってみることにした。












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2002.10.19