突然、新しい理事長に呼び出された。

新しい理事長は初の女性理事長で、イルカよりもかなり年上なはずなのに、とても若く見える不思議な人だった。

ストレートな物言いが男勝りな初代理事長の孫に当たる方だ。

あまり面識のないイルカは、喋り方を聞いただけでちょっと怯んでしまう。

「あんたがイルカ先生かい。待ってたよ」

「何でしょうか」

すくみそうになる肩を必死に下ろし、五代目の前に直立した。

無意識に握り込んだ手には嫌な汗をかいている。

「あははっ!そう緊張するな。別に取って食ったりしないから、安心しろ」

理事長は真っ赤な口紅を塗った唇を大きく開けて豪快に笑った。

美人がそんな笑い方をするとは思ってもいなかったので、イルカは心底驚いた。

目を見開いて硬直しているイルカの姿を見て、理事長は更に大きな声で笑った。

理事長が余りにも笑ってばかりいるので、イルカは緊張している自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。

「あんたも知ってるかもしれないが、前任者の孫がこの学校に入学するかどうかで駄々を捏ねててね」

「前任者のお孫さん…。あ、木の葉丸ですか?…そっかぁ。木の葉丸もそんな年になったのか…」

前任者というのは三代目理事長の事で、先日亡くなられた方だ。

孫の木の葉丸は三代目にくっついて、時々学校に顔を出していたので、既にイルカとも顔見知りになっている。

「この道に入りたそうな雰囲気はあるんだけどねぇ。近しいものが偉大だから、っていう抵抗があるのかもしれない」

「料理は好きみたいですね。ここに来ると、目をきらきらさせていましたから」

「そこで、あんたに頼みたい事があるんだよ。一日だけでいいから、あいつの世話を買ってくれないか?」

「…というと?」

五代目が顎に人差し指と親指を掛け、少しだけ前に身を乗り出した。

目が何かをたくらんでいる色をしている。

「今度の日曜日、一階の第二実習室で一対一の実習。休日出勤扱いではなく、研究出勤扱いにしてくれ」

研究出勤というのは、自らが研究のために学校施設を利用する場合の出勤だ。

勤務には当たらないので、給与には反映されない。

「私用で教師を出勤させたとなると、色々と処理が面倒でね。午前中だけでいい。悪いようにはしないよ。どうだい?」

彼女がいるわけでもないし、休日は勉強ばかりしているので、たまにはそういう事もいいだろうと思った。

それに、五代目に貸しが出来るチャンスなんて中々あるもんじゃない。

伝統ある料理学校の理事長の力は、イルカの将来にとってかなり有利だ。

第一、木の葉丸の実習に付き合うのなんて、なんの苦にもならない。

イルカにも良い息抜きになるだろう。

「今度の日曜日ですね。いいですよ。ああ、エプロンだけは持ってきてもらわないと」

「内容はイルカの好きにやってもらって構わない。材料費は学校に請求してくれ」

「わかりました。木の葉丸には八時に玄関で待ち合わせと伝えて下さい」

「エプロン持って八時に玄関前だな。言っておく。じゃぁ頼んだよ」

理事長は肩の荷が下りたと言わんばかりに、高そうな椅子に埋もれるように背を預けた。

イルカは深々と一礼し、失礼しますと言って理事長室を出た。

そっとドアを閉めると、顔が勝手に緩んでしまう。

休日が楽しみになったのは久しぶりだった。







* * * * *







きれいに晴れた日曜日。

土曜のうちに用意していた材料を持って、八時五分前に学校へ到着するように家を出た。

予定通り約束の五分前に着くと、待ち合わせの玄関にはもう木の葉丸が来ていた。

小さな体を丸めて僅かな段差に腰を下ろしている。

「イルカ先生!遅いぞコレェ!」

「ははっ。悪い、悪い。それにしても久しぶりだな、木の葉丸」

「おう!」

木の葉丸の頭をがしがし撫で、頭の後ろを押してそのまま校舎に入るように促した。

五代目が用意してくれた一階の第二実習室は、親子で体験実習が出来るように流しや調理台が低く作ってある。

イルカの腰ほどの身長の木の葉丸も、あの高さなら丁度良いだろう。

「今日は何作んのかコレェ」

「何だと思う?材料見て当ててごらん」

がさごそとビニール袋から品物を取り出して、丁寧に台に並べていった。

木の葉丸は袋を出入りするイルカの手元をじっと目で追って、真剣に考えている。

卵とココアパウダーと星の型を出したところで、木の葉丸が大声で叫んだ。

「クッキーだコレェ!」

「お!大正解!じゃ、エプロンつけて手を洗おうか」

「よしコレェ!」

木の葉丸が身支度を整えている間に、イルカは調理台の下に仕舞ってあるボウルやはかりを出して準備を始めた。

まずは、本に書いてある通りの分量で小麦粉や砂糖などを計量する。

重さがぴったり合う毎に一喜一憂する木の葉丸の姿は本当に楽しそうだ。

大きめのボウルに材料を入れ、力の弱い小さな手で一生懸命生地を練った。

イルカは両手でボウルを支え、集中している顔を横から眺めていた。

「そろそろいいかな。あとは冷蔵庫で三十分ぐらい生地を寝かせて、馴染むのを待つぞ」

「三十分もかコレェ?!」

「おいしいものは時間を掛けないと出来ないの。だからその間に少しでも片付けをする」

「えー、そうなのかコレェ」

木の葉丸は残念そうに肩を落としたが、イルカの言い付けを聞いて、使った器材を流しへ運び始めた。

素直でいい子に育っている。

本当は三代目が亡くなった時からずっと心配していた。

イルカが葬儀場に着いた時には、既に泣きすぎて目が腫れていて、もう堪らなくなってその場で抱き締めた。

その木の葉丸が今はこんなに元気に笑っている。

「木の葉丸はアカデミーに入りたくないのか?」

用のなくなったヘラやボウルを二人で一緒に拭きながら、そっと尋ねた。

木の葉丸の手が止まる。

イルカも五代目が言っていたように、入学を渋っているのは三代目の影響があると薄々感じていた。

ただ、五代目が言った理由とは違う気がした。

「…三代目は喜ぶと思うぞ?」

「だって…じじいを思い出すんだコレェ…」

「ばか。当たり前だろ。三代目は偉大な人なんだから、料理する時はいつも心の中に置いておかなきゃ」

「イルカ先生…」

「忘れたりしたら、三代目が悲しむ」

「…うん…」

止まっていた手を再び動かし始めた。

何となくだが、ちゃんと入学を考えてくれたように思えた。

大人しくなってしまった木の葉丸も、幼稚園の話をしていると、またすぐ笑顔に戻った。

一通り終わる頃には生地も馴染んでいて、冷蔵庫から出すと、ちょうど裁断しやすい硬さになっていた。

最初だけ見本で切り方を教えて、残りは全部木の葉丸にやってもらった。

星型に抜き取る方は時間がかからなかったのだが、包丁を使っての裁断にてこずって、オーブンに入れる頃には昼前になっていた。

「昼飯でも食いに行くか?」

「オレ、イルカ先生の作ったもん食いたいコレェ」

「俺が作ったもの?そんなのでいいなら別に構わないけど」

バランスの良い食事を摂るのなら自炊に勝るものはないが、木の葉丸くらいの年だとファミレスやファーストフードの方が好きなのかと思った。

「あ、イルカ先生。こんな所に居たんですか?探しちゃいましたよ」

聞き覚えのある声に名前を呼ばれて振り返ると、廊下にカカシが立っていた。

「カカシ先生!どうしたんですか?お休みの日まで」

イルカは言った途端、あっと口を抑えた。

カカシの職業に日曜日が休みなんて事、ありはしないのだ。

世間的にいう休日の方が忙しい、と失笑されるかもしれない。

「いやぁ、休日の方が動きやすいもので。平日は企業への営業活動が多くて」

カカシは寝癖なのか癖毛なのかわからない髪を掻いて優しく笑ってくれた。

その笑顔でイルカの杞憂はあっという間に吹き飛んだ。

動きやすいと言ったカカシの服装は、それでも高そうなスーツを身につけ、いかにも仕事中という感じが漂っていた。

とても眠そうな顔なのに皺一つないスーツを着ていて、その対照的な組み合わせが面白かった。

そして、ふわりと香るのはやはり女性物の香水の香り。

「イルカ先生!カカシ先生なんか放って、早く買い出しに行こうコレェ!」

すっかり蚊帳の外になっていた木の葉丸が、低い位置から抗議の声を上げた。

木の葉丸も、とっくにカカシとは面識がある。

「あ、そうだな、行こう。じゃ、カカシ先生、失礼します」

イルカは木の葉丸の手を取り、カカシを置いて外へ行こうと動いた。

「え、イルカ先生、どこかに行かれるんですか?」

「はい。昼ご飯用の食材を買いに」

そう言うと、カカシの眠たそうな目がぱっと開いた。

イルカのよく見る、あの時の目になっている。

「お邪魔でなければ、オレもご一緒して構わないでしょうか?」

「ったく、しょうがねぇなぁコレェ。カカシ先生も一緒に来て良いぞ」

イルカに向いていた顔を瞬時に木の葉丸へ向け、カカシが嬉しそうに微笑んだ。

「悪いな、木の葉丸」

カカシは悪いだなんて微塵も思っていない笑顔で、木の葉丸の空いている方の手を取った。

子供の無邪気な意見に、大人のイルカが異論を唱える事なんて出来なかった。

出来る事ならカカシには遠慮してほしかったというイルカの本音は泡となって消えてしまった。










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2003.10.12