移動する音は聞こえなかった。

キッチンにいると思った気配は、一瞬にしてイルカの前に現れた。

「あの…」

頭上から掛けられるカカシの声音が戸惑いを含んでいたが、顔を上げる事が出来ない。

「…少し…。本当に少しでいいんです…。少しだけ話を…させてもらえませんか…?」

カカシの掠れ声に隠された切実さに胸が震える。

どうしてそこまでひたむきな態度を取るのかわからない。

急にカカシのテリトリーに土足で侵入したイルカを何とも思わないのだろうか。

「…馴れ馴れしい態度をとった事が嫌だったなら謝りますから…」

カカシは何も悪くないのに謝ると言う。

膝の上でこぶしを握った。

どうしてそんなに優しいのだ。

勘違いするじゃないか。

「…カカシ先生は…」

キッチンのケトルから沸騰を知らせるぴーっという高音が響く。

カカシの声よりも掠れたイルカの声は、あっさりと掻き消された。

「日曜に仕事が休める事って滅多にないんですっ。お願いですからっ」

先程とは打って変わった大声からも、ひしひしと伝わってくるものがあった。

イルカは何も言えなくて、黙ったまま下を向いていた。

その間もカカシは『少しだけ』を繰り返している。

ケトルからの高音は止む気配がない。

このままケトルを火にかけていては、空焚きになって火事になってしまう。

カカシの言葉よりも、そちらばかりが気になって落ち着かない。

心配になって、とうとうイルカが顔を上げた。

「カカシ先生、お湯が…」

「湯なんていいですっ。それよりイルカさんがっ」

カカシは、必死になって親におもちゃをねだる子どものような顔をしていた。

泣きそうなほどに一生懸命な顔。

本当に、どうして、そこまでしてイルカを引き止めようとするのだろう。

「空焚きだと危な…」

「だって、イルカさんが帰るってっ」

何を言っても聞いてくれないので、自分で立ち上がってキッチンへ向かおうとした。

突然立ち上がって歩き出したイルカが帰ると思ったのか、カカシに腕を掴まれた。

立ち止まって、ゆっくり振り返る。

「…コーヒーを煎れてくれるんじゃないんですか」

眉間に寄っていた皺を一気に延ばして、カカシが目を見開いた。

「…っ!はいっ!」

カカシはスリッパをバタバタ鳴らせてキッチンへ走っていった。

この家の主人が本気で引き止めてくれるのなら、もう少しここにいてもいいのかもしれない。

そう思って、初めてイルカはガラス張りのリビングから景色を眺めた。

橙色に染まる景色は、カカシの言う通り、とても綺麗だった。

いつもなら、婚約者と二人で愛を囁きながら見ているだろう景色。

美男美女のカップルの姿が易々と想像出来て、咽喉が詰まりそうになる。

でも、今だけはイルカにも見る事を許してほしい。

「オレ、子どもっぽかったですよね…。いい年してすいません」

カカシがトレイに、コーヒーカップとティースプーンを二組と、一人暮らしでは大き過ぎるシュガーポットを載せてやって来た。

自分の行動の幼さが恥ずかしかったのか、カカシの頬が少し赤くなっている。

「あ…。立たせっ放しで待たせてゴメンナサイ。どうぞ、そこ、座って下さい」

視線は遠い景色に合わせたまま、今度は慎重にソファーに腰を下ろす。

カカシはイルカの向かい側に座ったが、彼女と一緒の時は隣同士で座るのだろう。

きっと互いの体を密着させて甘い時間を過ごすのだ。

「イルカさんは砂糖いくつ入れるの?オレは一個」

「…俺は二個です」

「ミルクは?」

「…入れます。…あ、すいません、自分で」

「いいえ。お客様にそんな事はさせられませんので」

お客様、と聞いて、カカシへ視線を戻す。

そうか。

客扱いされていたから、あんなに優しかったのか。

帰らないでくれと言ったのは店側の配慮。

降って湧いた答えは、イルカの心に乾いた風を吹き込んだ。

風は目の水分を奪い、乾いた眼球を潤すために涙腺から新たな涙が分泌される。

カカシはこの業界のプロフェッショナルなのに、どうしてその事に気付かなかったのだろう。

すっかり仕上がったコーヒーを渡され、曖昧な顔で微笑む。

「ありがとうございます」

「どうぞ、お召し上がり下さい」

「いただきます」

カップを口元へ近付けると、バニラの甘い香りが漂った。

フレーバーコーヒーがブレンドされているようだ。

嗅覚から得る記憶は最も原始的なもので、中々忘れないという。

次にどこかでバニラのフレーバーが入ったコーヒーを飲んでしまったら、きっとカカシの事を思い出す。

この部屋で見た景色の事も、婚約者と楽しそうにしているカカシを想像した事も。

「どうですか?」

「…おいしいです…」

「よかった。イルカさんはいつも砂糖二個なの?オレは仕事の日は三個なんです。疲れてるから」

コーヒーを一杯飲む毎に砂糖を三個使うなら、大き目のシュガーポットも頷ける。

「俺はいつも二個です。よく職員室でからかわれます。太るぞって」

「イルカさんは全然太ってないじゃない。それに男は痩せてるより、がっちりしてる方がいいもんでしょ」

そう言うカカシは細そうに見える。

余程、仕事が忙しいのだろう。

日曜に休める事が滅多にないとも言っていたし。

「今日はオレに付き合わせちゃったけど、普段、休みの日は何をしてるの?」

「…家でごろごろしたり…勉強したり…授業の準備をしたり…です」

「イルカさんは勉強家だよね。真面目だし。やっぱり、教師は通過点に過ぎない?」

通過点と言われると、片手間にやっているイメージがあったので引っ掛かった。

教師なんて片手の力を抜いてでも出来る仕事とは思っていないが、カカシにはそう見られていたのだろう。

実際にイルカも独立欲があるので、言い返す言葉がない。

カカシはアカデミーの理事だし、軽々しく、留学して独立したいだなんて言えない。

もし口走ってしまったら、そんな人間は早く辞めてくれと言われるかもしれない。

「…今の仕事を精一杯遣り遂げられればいいと思います」

当たり障りのない返答。

「そうなんだ…。もし…」

カカシが何かを言い掛けた。

しかし、何の前触れもなく開いたリビングのドアによって、その続きを聞く事は出来なかった。

人が入って来たのだ。

「あら、お友達がいらしてたのね。カカシさんの履かないような靴があったから、どうしたのかと思ったわ」

短いタイトスカートから綺麗な足を覗かせているその人は、カカシの婚約者だった。

上品な口調と、整っている顔の作りに、はっきりした化粧をしている姿は、アカデミーで見掛けた姿と同じだ。

玄関に置いてあった靴はイルカの履き慣れたスニーカー。

彼女の言う通り、カカシとは縁のない履き物。

「私もコーヒーを頂いてよろしいかしら?」

彼女がキッチンへ入ろうとしたのを、ソファーから立ち上がったカカシが遮った。

「オレがやりますから。今日もバルコニーで飲みますよね。先に行っていて下さい」

「はい」

イルカの前を横切り、慣れた足取りでバルコニーへ向う。

あんなにセキュリティーの厳しかった建物に、簡単に入って来れる人。

自由にこの部屋へ来れる人。

豪華な部屋にも引けを取らない上等な人。

リビングからの景色を見てしまった事を、今更ながらに後悔した。










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2004.02.15