カカシが婚約者と逢う場に、イルカという部外者が一人混じってしまった。

そんな罪悪感。

「あの…、ごちそうさまでした。俺、失礼します」

カカシと目を合わせないようにリビングの出口へ向かう。

婚約者のためにコーヒーを淹れているカカシが、キッチンから出ようとしたので笑顔で遮った。

「オートロックなら鍵がなくても出られますよね?俺、一人で大丈夫ですから」

顔は向けても目は見ない。

本当はカカシの目を見る事が出来ないのだけれど。

イルカがリビングのドアノブに手を掛けた。

軽く握ってドアを引こうとしたら、瞬時に移動してきたカカシの手がそこへ重ねられた。

「ごめんなさい。今日、彼女が来るとは思わなくて…。本当は家まで送りたかったんだけど…下までは送るよ」

「そんな…、婚約者がいる方の家に遠慮もせずに上がった俺が悪かったんですから。本当にここで…」

「ちょっと待ってて。彼女に言ってくるから」

バタバタというスリッパの音が、イルカの後ろから遠ざかっていく。

カカシが、婚約者の待つバルコニーへ行ったのだ。

申し訳なさが更に積もってきて、逃げるように長い廊下を進んで玄関へ出た。

ここに入る時にはなかった、小さくて細いハイヒールが、綺麗に揃って脱いである。

イルカのスニーカーは、広い玄関でそのハイヒールとは一番離れた隅っこに置いてあった。

こんな所で脱いだっけ、と思ったがそんな事はどうでもよかった。

つま先にスニーカーを引っ掛け、かかとを踏んだままでいそいそと出て行く。

オートロックのドアが閉まり、施錠されたカチャッという音を確認する。

これで、もう二度とこの部屋には戻れない。

気持ちを落ち着けるために、一度深呼吸をして、エレベーターホールまで歩いて行く。

一番近くにあった下方向の矢印に触れると、触覚センサーでランプが点いた。

自分でも理由はわからないが、胸の中で、早く、早く、とエレベーターが早く来る事だけをひたすら願っている。

4台あるエレベーターのうちの一つに、到着が間もない事を知らせる明かりが灯った。

早く、早く、と願う言葉の間隔が、より短くなる。

空気の圧力を抜く時の、シューッ、という音でエレベーターのドアが開く。

中には既に先客がいて、1階のボタンが押されていた。

身なりのいい主婦、といった感じの女性だった。

夕方の時間帯なら、夕飯の買い物へ出掛ける主婦は多いだろう。

そのイルカの想像は現実となり、エレベーターはほぼ各階に止まって、主婦らしき女性を乗せていった。

46階を過ぎると、あとはノンストップで1階まで到着した。

主婦達が降りる後に付いて、イルカも地上へ出る。

オートロックの自動ドアが、エレベーターホールとマンションの玄関に、二重に設置されていた。

主婦達は戻ってくる手段を持っているから、外へ出る事に躊躇いがない。

イルカも怪しまれないように、自然を装って続いた。

ショップや住居が集まる、この辺りの一大複合施設は最近完成したばかりで、イルカも初めて訪れた。

そのせいで土地勘が働かなくて、現在地を把握できない。

案内板か何かないかと、きょろきょろ見回す。

すると、遠くの方に、地下鉄のマークとそこまでの距離が書いてある看板を見つけた。

心の中で、良かった、と安堵の溜め息を吐き、そこへ向かって一歩踏み出した。

しかし、何歩も進まないうちに、唐突に後ろから手首を掴まれた。

びっくりして振り返ると、膝に手を当てて腰を折り、肩で息をする頭が見えた。

カカシだった。

「…待ってっ、って、…言ったっ、のに…」

荒い息を整えながら、ぎゅうっと強く手首を握り込まれる。

二度と逃げられないような拘束力。

その手がやけに温かくて、体温の低そうなカカシにしては意外だった。

「どうしたんですか…?」

「下まで送るって、言ったじゃない」

「でも…」

「玄関に行ったらイルカさんいないし、靴もないし、外に出てエレベーターまで行ったけど、いないし」

上半身を起こしたカカシの額には汗が浮かんでいた。

「一人で帰っちゃったのかと思って、急いで階段で下りてきた」

「か、階段?!」

カカシの家は55階だ。

いくら高層マンションといっても非常階段ぐらいはあるだろうが、普段使うものではない。

人間が走る速さと、機械が動く速さと、どっちが速いかなんて、十人いたら十人とも同じ答えを出すだろう。

しかも人間には肉体疲労というものがある。

それに普通なら、面倒だと思って然り。

「このまま帰したら、イルカさん、もう二度とここに来てくれないと思ったから」

頭の中でカカシの言葉を復唱した。

そんな理由で階段で下りて来たというのか。

イルカのためだけに55階から走って、追い掛けて来てくれたというのか。

胸が詰まった。

どうしようもなく、カカシが愛しくて堪らなかった。

ここに誰もいなかったら、きっと思い切り抱き付いている。

それが出来ない代わりに、手首を掴むカカシの手に、イルカの手を重ねた。

「また、いつでも来て。今度、合鍵渡すから」

「合鍵…」

カカシの婚約者も持っていた合鍵。

カカシがどんな気持ちで言ったのかわからないが、受け取ってはいけない、と思った。

合鍵なんて大切な物を、よく知らない人物に預けるものではない。

いや、それ以前に、イルカにはあの家は場違い過ぎる。

カカシが本気で合鍵を渡すつもりだとしても、イルカが断りきれなくて受け取ったとしても。

決して行く事はない。

自分をわきまえるように、カカシから手を離した。

「…ですから、先程も申しました通り、…婚約者のいる方の家へ簡単に遊びに行くなんて…」

カカシと婚約者が楽しそうに過ごしているかもしれない場所へなんて、絶対に行きたくない。

「イルカさん、11月23日って暇じゃないですか?もし暇なら、オレと会ってもらえませんか?」

合鍵の話をしていたのに、どうして急に11月23日の話に変わるのだ。

それに数ヶ月先の事を、今言われても答えられない。

「どうしても、その日にイルカさんと会いたい」

カカシがポケットをごそごそして、一枚の紙を取り出す。

少し折れ曲がっているけれど、カカシの名前と、住所や携帯電話の番号が書かれた名刺だった。

「これは私用ケータイだから、いつでも掛けて来て。あと…、イルカさんの番号、聞いてもいい…?」

カカシの言う番号とは、携帯電話の電話番号の事だろう。

しかし、イルカは携帯電話を持っていなかった。

その事を時代遅れだと笑われると思ったら、眉が下がって、情けない顔になった。

「すみません、俺、携帯電話を持ってないので、番号は教えられません。…失礼します」

手首を掴むカカシの力が緩んだ隙をついて、さっと手を引く。

頭を下げる直前、一瞬だけ捕らえたカカシの顔が、歪んでいるように見えた。

改めて見直す勇気は湧かず、目線を下げたまま頭を上げ、カカシに背を向ける。

早く一人になりたかった。

看板の指す方向へ早足で歩く。

すると、少し離れた所からカカシの声がした。

「ああ、くそっ!」

自分の思い通りに事が進まなかった時に出る言葉。

いつでも遊びに来て、合鍵を渡す、指定日付で会いたい、とまでカカシに言わせたのに、良い返事は一つもしなかった。

せっかく私用ケータイの番号を教えてもらっても、こちらから返せる携帯電話番号もない。

カカシもイルカなんかに、それだけの無体を働かれるとは思っていなかったのだろう。

わざわざ55階から走って追い掛けて来たというのに、無駄足に終ったのだ。

プライドを傷つけたかもしれない。

これだけの事をしたのだから、嫌われても仕方ない。

最後の捨て台詞のような独り言は、きっと、わざとイルカに聞こえるように言ったのだ。

怒ったカカシは、もうイルカの授業を覗きに来る事はないかもしれない。

考えてみれば、カカシとの繋がりなんて、たったそれだけだったのだ。

か弱い糸は、悲しいほどあっさりと終わりを告げる。

幸い、カカシを好きになった傷はまだ浅い。

それだけが唯一の救いだった。










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2004.03.20