休憩時間に、教室の閉じていたドアが開き、生徒が出入りするだけで過剰に反応したのは最初の二、三日。

意識しないように意識し始めたのは一週間ぐらい過ぎてからだろうか。

カカシの家に行ってから、もうすぐ二ヶ月が経つ。

思った通り、あれ以来、カカシがイルカの授業を覗きに来る事はなくなっていた。

それでも11月23日はどんどん近付いてくる。

カカシについて知っている事が少な過ぎて、何の日なのか、何が起きるのか、何も起きないのか、それすらもわからない。

ただイルカにわかるのは、その日がカカシと繋がっていられる最後の糸であるという事。

何もなければ、何もなくなるという事。







* * * * *







2学期の学期末考査目前のこの時期は、休日でもアカデミーに出勤している事が多い。

23日は日曜で、24日は振替休日で休み。

今年の期末考査は25日から始まるので、前連休は生徒にとっても教師にとっても試験前の執行猶予に当たる。

23日がどんなに重要な日であっても、期末考査で使う試験問題や課題を仕上げなければ、約束は反故する事になる。

それだけはしたくなくて、ここのところは毎日遅くまで残業していた。

イルカ自身、微かな望みをかける懸命さが、一歩間違えれば虚しさに変わるという事に気付いている。

そんな自分に活を入れるために、先日、五代目に、独立を前提とした留学を考えている事を打ち明けた。

よく考えた末の結論ならば引き止めないと言われた。

その代わり、いつでも泣き付いてきて構わないとも言ってくれた。

現在受け持っている生徒達の事は気になるが、彼らなら絶対に自らの力で伸びてくれると信じている。

「イルカ先生は今日も遅そうですか?」

親しげに声を掛けてきたのは、実家が老舗の飲食店を営んでいるアヤメという若い先生。

父は全国に一楽グループという名で様々な店舗を展開している。

男性陣に可愛らしい印象を与える外見とは裏腹に、さばさばした性格でとても付き合い易い女性だ。

イルカと同じぐらい遅くまで残業していて、今では戦を共にした戦友のような間柄になっている。

「あー、すいませんが、今日も遅そうですんで」

「はいはい、今日もお宅までお送りしますからご安心を」

わざと渋々を装った言い方が気安い。

彼女は自動車通勤で、その愛車はプロのレーサーがサーキットで乗るような代物だ。

電車が走っていない時間まで残業しているイルカは、最近は毎日のようにアヤメに家まで送り届けてもらっていた。

彼女の車に乗る時は、カカシの車に乗った時のような肩身の狭い思いはしないから不思議だった。

「というか、今日は私がイルカ先生を待たせるっぽいんですけど」

「というと?」

「イルカ先生は明日も朝から出勤するでしょう?私は休みの日は休むタイプなんで」

今日は平日最後の追い込み、21日金曜日だ。

「なら、俺も安心して遅くまで仕事していけます。よかった」

「私が終った時が、イルカ先生の終らせる時間ですからね」

「よろしくお願いします」

顔を見て軽口を言い、お互いに苦笑した。

時間が経つに連れ、一人、また一人と職員が教員室を去っていった。

パソコンのキーを叩く音やペンを走らせる音が耳に付くようになると、それが人口密度の減少を意味する。

22時過ぎ。

また一人が帰路につき、教員室に残るのはあと3人になった。

空間で発生する物音が更に際立つ時間帯。

その瞬間を狙ったように、外線電話が鳴った。

こんな時間に鳴る電話は、間違い電話か、生徒の保護者から掛かってくる急用か。

何か事故でもあったのかもしれないと思い、我先にと受話器を取った。

しかし、僅かに早く動いたアヤメが先に電話を捕まえた。

「イルカ先生、カカシ理事からお電話です」

アヤメの言葉に、体がびくりと揺れた。

予想していなかっただけに、生徒が事故に遭ったと聞くよりも驚いた。

何も知らないアヤメが、固まっているイルカを訝しげに見つめる視線に気付き、慌てて受話器を取る。

「…お電話変わりました、うみのです」

心臓の音が送話口から伝わらないか心配になるくらいどきどきうるさい。

『イルカ先生?お疲れ様です。カカシです』

本物のカカシの声に、新たに大きく心臓が鳴った。

『…最近お仕事忙しいみたいですね。今日も遅くなりそうなんですか…?』

緊張して歯がカタカタと音を立てて、唇が小刻みに震える。

「は、はい…」

はいという一言すら、つかえてしまう。

『一緒に帰りませんか?家まで送りますよ』

「えっ…そ、そんな…事…」

『オレじゃ、駄目ですか』

「いえっ、そういう事ではっ…」

『じゃぁ、決まりですね。これから迎えに行きます』

「え、あの、ちょっ」

『また後で』

その言葉を残してぷつりと切れた電話は、ツー、ツー、と聞こえるだけになった。

耳から離して、受話器を見つめる。

まだ心臓が音を立てている。

「カカシ先生、何て?」

「…これから…来るって…」

「えっ、これからですか!?…イルカ先生、何かしたんですか?」

「…何かしたのか…なぁ…」

「理事を待たせるのはマズイんじゃないですか?来るまでに出来る所までやっておいた方が」

「そ、そうですよねっ」

惚けている頭にアヤメの正論が押し寄せた。

今までだって、のんびり作業していた訳ではないが、より一層速く処理出来るように動き出す。

この集中力を普段から発揮出来れば、イルカの残業はかなり削減されるだろう。

もう、ひたすら必死に机に向った。

カカシの電話からしばらくして、また一人、職員が帰宅した。

これで教員室はイルカとアヤメだけになった。

馴染みの気配だけになった事でリラックスした分、もっと効率が上がる。

そして、とうとう、その時がやって来た。

「イルカ先生」

カカシの声、たった一言。

それまで淀みなかったイルカの集中力を途切る合図。

カカシがドアのない教員室の入口に立っている。

その姿が幻影に見えて、カカシに顔を向けたままで固まった。

呼ばれても返事をしないイルカをフォローするように、アヤメが立ち上がる。

「カカシ先生、お疲れ様です」

「ああ、お疲れ様です」

挨拶をして、初めてアヤメに気付いたのか、カカシからは生返事が返ってきた。

「まだお仕事中でしたか。じゃ、オレそこの応接で待ってますね」

衝立に隔たれた簡易な応接室を指差して、カカシがそちらへ歩いていく。

慎重に歩く事で足音を消して、アヤメが近付いてきた。

「明日も来るなら、広げたままで帰っても大丈夫じゃないですか。とにかく急いだ方が」

アヤメの指摘によって、ようやくイルカの体が正常を取り戻した。

小さな声のアドバイスは、衝立に隠れたカカシには聞こえなかったはずだ。

「はいっ」

「よくわかりませんけど、頑張ってください」

「はいっ」

笑顔で励ましてくれるアヤメが、とても心強かった。

少しでも疲れていない表情を作ろうと、指先で眼の周りをマッサージする。

気を抜いたら、足から崩れそう。

力みながらも、早足で応接コーナーへ向かった。

カカシが入った時にずらした衝立の隙間から中を覗う。

狭いスペースにある小さいソファーとカカシ、という組み合わせがひどく不釣り合いだった。










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2004.04.05