カカシ宅にあったソファーと比べたら、数段質の落ちる応接ソファー。 そこで暇そうにしているカカシに、茶すら出していなかった事に気付いた。 一瞬の内に現れた冷や汗が、今更遅いだろうという諦めに吸い込まれる。 「すみません、お待たせ致しました」 「とんでもない。オレの方こそ、2ヶ月も音沙汰なしで失礼しました」 「いえ…。こちらこそ…、申し訳ありません…」 カカシからの謝辞に恐縮して、緊張でしどろもどろになりながらイルカからも謝辞を返す。 すると、カカシの表情が僅かに曇った。 あらかじめ用意出来た語録はここまでだ。 気の利かない台詞だとはわかっていたが、失言にとられてしまったのだろうか。 「…イルカ先生、硬い」 「す、すみませんっ」 「…仕事、終ったの?」 「はいっ」 体だけではなく、イルカの発する言葉までが強張る。 カカシが更に困った顔をした。 何か言おうとして開いた口からは何も出ず、代わりに溜め息が聞こえた。 「ま、行きましょう。話はそれから」 そう言って、カカシが立ち上がる。 イルカには外に行く前に、どうしても言わなければいけない事があった。 「あ、あのっ!カカシ先生、俺、カカシ先生の帰る方向とはっ…」 逆方向なんです、と続くはずだった言葉は、伸びてきた人差し指に堰き止められた。 「ここじゃぁ、なんなんで」 イルカの唇とカカシの指が触れた。 その出来事がイルカにはとても衝撃だった。 カカシは取るに足らない事だと言わんばかりの自然な足取りで、教員室から出ようとしている。 他人の唇なんて、簡単に触れる部位だろうか。 擦れ違い様に肩がぶつかるのとは訳が違う。 「あ、イルカ先生。外寒かったから、上着ちゃんと着てきてね」 呆けるイルカが薄着のままカカシに付いて行きそうになった事へ、釘を刺してくれたようだ。 更衣室に寄る事なんて、本当にすっかり忘れていた。 「すぐに行きますっ」 カカシが教員室から出たのを見計らって、隣にある男子更衣室へ突き進んだ。 アカデミーにいる時のイルカは、ワイシャツ、ネクタイにエプロンを付けた姿で仕事をしている。 校内は空調が整っているのでそのままの格好で支障がない。 ロッカーには通勤時に着ている背広の上着と、冬物のコート、それから通勤鞄が入っている。 予備のエプロンも2枚置いてある。 腰の後ろで結んである紐を解いてエプロンを外し、いつもより雑に畳んで通勤鞄に詰め込んだ。 ジャケットをハンガーから剥ぎ取る時に立つ音が、待たせている事への焦りに拍車を掛ける。 「落ち着いて着替えて下さって結構ですよ」 その声にドアの方を向くと、猫背のカカシが当たり前のように腕を組んで佇んでいた。 てっきり、先に玄関へ向かっていると思っていたのに。 カカシは待たされているのに、にこにこしていて、少なくても気分を害してはいないようだった。 「…はい」 口篭もって答えたのは、慌てている所を見られたのが恥ずかしかったから。 今度は余計な音を立てないように、慎重にコートを羽織った。 鞄を手に持って、とりあえず身支度が整ったのでカカシに近付く。 「通勤鞄、リュックなんだね。よかったー」 「?」 「今日、オレ、車じゃなくて、バイクなの」 「じゃぁ…」 「イルカ先生、ダッフルコート似合うね」 一緒に帰れない理由を見つけたと思って言おうとしたら、関係ない話に摩り替わった。 カカシは更衣室に来てからずっと、にこにこと笑顔を振り撒いていて、妙に上機嫌だ。 何かあったのかと、漠然とした不安が胸に巣くう。 慣れた仕草で紳士的にドアを開け、更衣室から出るように促された。 玄関までの短い道のりを並んで歩く二人の間の距離が、やけに狭く感じる。 歩調に合わせて振れる手が、カカシの手に触れてしまいそうなほど。 手を握られたらどうしよう、と勝手に想像して、一人で赤くなった。 「帰る前に、甘い物でも食べに行きません?遅くまでやってるトコ知ってるから」 考えていた事を振り払うように、わざと軽く咳き込んだ。 「…近くですか…?」 遠まわしに断るつもりで言った。 明日も出勤するイルカにとって、今日の夜更かしは控えたい。 しかし、カカシは別の意味に採ったようだった。 「近くにもあります!…ああ、イルカ先生のお宅の傍の方がいいのかな?」 「いえ…そういう訳では…」 「…そう?で、あれが、オレの」 少し残念そうにしたカカシが、薄暗い駐輪場を指差した。 薄明かりでも黒光る、大型のバイク。 ハンドルにフルフェイスのヘルメットが二つ引っ掛かっている。 イルカは普通自動車免許は持っていても、自動二輪の免許は持っていない。 今までも特に興味が湧かなかったので、バイクに関する知識は皆無だ。 カカシの運転を疑うわけではないが、こんな物に二人乗りをして、危なくはないのだろうか。 「後ろに乗った事は?」 「ありません。それどころか、バイクに乗る事自体、初めてです」 「そうなんだ?…ま、簡単だから。オレが前に乗ってるから…、こうして…」 カカシがイルカの手を取って、背を向けた。 「後ろからオレに思いっ切り抱き付く感じで」 「…こ、こうですか…?」 思い切りと言われても、男の力で思い切りしがみ付いたら気の毒だと思って、軽く手を回すだけにした。 「うーん、もっとぎゅうっと」 「えっ、もっとですか…?」 理事に働く無体にならない、ぎりぎりまで力を入れる。 それでも納得しないのか、カカシは脇から伸びるイルカの手を自ら強く引いて、更に密着させた。 「え、え、え」 「このくらいで。あと、手袋ないと寒いから、オレのブルゾンのポケットに、手、入れてね」 勤め先の理事に対してする行為にしては行き過ぎに思えた。 こんな事をするくらいなら、いつも通りに帰った方がいいような気がする。 「…折角なんですが、やっぱり、俺、一人で帰ります」 イルカの提案に驚いたのか、カカシの眠たそうな眼が急激に見開かれた。 「どうして?オレと一緒に帰るのは嫌?」 「嫌とか、そういう事ではなくてですね」 「あの女の人とは一緒に帰るのに、オレはダメなの?」 息を飲んだ。 どうしてカカシが、アヤメに家まで送って貰っていた事を知っているのだろう。 戸惑いながら、カカシから出る次の言葉を待った。 「…帰り道にアカデミーの前を通る事があるんです。最近は忙しくて、夜遅い時間だったけど」 ばつの悪い顔をしたカカシが、吐き捨てるように言い放った。 両手のこぶしが握り込まれている。 「ねぇ、11月23日の約束って、覚えてる?」 どきっとした。 覚えているも何も、そのために毎日遅くまで仕事しているのに。 もちろん、片時も忘れた事などない。 どこまでも真摯なカカシの視線が突き刺さる。 「はい…」 居心地が悪くなって、目を逸らしながら答えた。 そんな目で見つめられたら赤くなってしまう。 今が暗い時間でなければ、恥ずかしくて両手で顔を覆っていたかもしれない。 「外じゃ寒いし、店に入ってから話そっか」 話が変わった事に安堵する。 カカシが片方のヘルメットをハンドルから外した。 ボールを投げるようにイルカへ放る。 長い足でバイクに跨り、エンジンを吹かし始めた。 「どうぞ」 準備が整ったのか、後ろに乗るように指示される。 決して軽くはないイルカが乗って、バランスを崩したりしないだろうか。 心配ばかりしていても仕方ないと、持っていたヘルメットを被った。 シートに手をついて、恐る恐る跨る。 「しっかり掴まってね」 バイザー越しでも確実にイルカの眼を捕らえ、にっこりと笑ったカカシがヘルメットを被った。 騒音が遮られた耳に届くのは、心臓の音。 ゆっくり動き出したのに、それだけで怖くなり、加減なんて出来ずに、ぎゅうっとしがみ付いた。 ss top okashi index back next |