バイクが動き出すと、全身が振動と走行音に支配された。 実際は10分とか、20分とか、それぐらいなのだろう。 でも、イルカの体内時計では、一時間も二時間も経っている。 「イルカさん、もう着いたから大丈夫だよ」 名前を呼ばれて、初めてエンジンが止まっている事に気が付いた。 イルカは未だにカカシへ全力でしがみ付いている。 「あっ、わ、今っ、すみませんっ」 カカシは困った顔で嬉しそうに笑っていた。 力の入らない手を剥がし、慣れない仕草でバイクから降りた。 ヘルメットを外して、手に抱える。 カカシもバイクから降り、ヘルメットを被ったまま駐車スペースへ転がしていく。 決められた場所に停め、カカシがヘルメットを外した。 「…ごめん、怖かったよね」 本当は怖かったが、情けないので何も答えずにいた。 「唇、真っ青」 「いえっ、これはっ…、ちょっと寒くて…」 「そっか、ごめん。震えてるね。早く中に入ろう」 イルカからヘルメットを奪い、カカシのと一纏めにしてハンドルへ引っ掛けた。 電柱に書かれた住所を見ると、洋服屋さんや、洒落たレストランが集まる地区だった。 大して詳しくはないが、イルカも学生時代は時々、研究という名目で訪れていた。 この辺りは、狭い道にたくさんのショップが軒を連ねているので、目移りして楽しいのだ。 目の前の店は、白い外壁が夜目にも眩しくて、海と似合いそうな雰囲気がある。 腰の高さほどの黒板に、簡単なメニューの紹介と、ラストオーダーは24時までとの記載があった。 中へ入ると、落ち着いた色の照明と重厚な扉が、一気に外の寒さを遮断する。 カカシが店員へ二名である事を告げると、奥側の席へ案内された。 「ここね、二人前からじゃないと頼めない、とっておきのメニューがあるんだよね」 すごく嬉しそうに喋るカカシの眼が、子どものように輝いていた。 イルカの見慣れた、いつもの眼だ。 「じゃぁそれ、頼みませんか」 バイクを離れてしまえば、イルカの精神も安定したものだ。 カカシの可愛らしい提案に笑顔で答えられる。 飲み物だけ選ぶように言われ、イルカはホットミルクティーに決めた。 カカシが店員を呼び、メニューを指差してオーダーしていく。 そのおかげで、とっておきのメニューが何なのかわからなかった。 手持ち無沙汰になったので、冷えた手を口元に寄せて、立て続けに息を吹きかけた。 その手へ、オーダーを終えたカカシの視線が注がれる。 何となく手のやり場に困り、テーブルの上で指を組んだ。 「…話したい事があり過ぎて、何から話したらいいか」 飲み物が運ばれてくる。 カカシはホットカフェラテ。 添えられた砂糖は三つ。 この店がカカシの行き付けである証拠だった。 イルカのミルクティーには一つ。 「一つどうぞ」 カカシが三つの内の一つを、イルカのソーサーに乗せた。 イルカの好みを覚えていた証拠だった。 「いいんですか?」 「イルカさんのためならね。ま、これでお揃いだし」 冗談めかした言い方が可笑しかった。 お言葉に甘えて、砂糖を二つ入れさせてもらう。 カップの温もりを両手で包み、暖を取りながら口に含む。 「えっと、まず、あれから、一度も連絡しないでごめんなさい」 「謝らないで下さい。俺からもしなかったんですから」 「…あんな状況で別れておいて連絡貰おうなんて、そこまで傲慢じゃないよ」 硬くなったカカシの表情から、自己嫌悪している事が伝わってきた。 それでもすぐに気を取り直そうと、笑顔を向けてくれる。 「今月の20日が来期の業務計画の提出日で。それと通常業務が重なって、めちゃめちゃ忙しくて」 大きなグループ企業の頭となると、11月には来期分の計画を作成しなければならないのか。 グループ全体に浸透させるには、それなりに時間を要するからなのだろう。 「ま、来期の計画が立ったおかげで、ようやく、婚約を解消できる事になったんだけどね」 「えっ!?婚約、解消っ!?」 カカシの婚約者といえば、美人で品のある、イルカも拝見した事のあるお嬢様だ。 彼女との婚約を解消するというのか。 そんな重要な事を、軽い口調で語れるカカシが奇妙な人に見える。 「元々が政略結婚みたいなものだったから」 彼女の父の経営するホテルが、カカシとの協力関係を築くために娘を差し出した。 来期の計画の中で、そのホテルがグループに参入する事が決まり、わざわざ結婚までしなくても済んだのだ、という。 業務的には丸く収まったのかもしれないが、カカシの気持ちの方は整理がついたのだろうか。 「…カカシ先生はそれで良かったんですか…?」 「当たり前でしょ。これでやっと自由に恋愛が出来る」 それを聞いて、なるほど、と思った。 カカシは複数の女性と遊べないから、という理由で婚約を解消したかったのか。 以前、とっかえひっかえに女性を連れてくる、というような事をアンコが言っていたし。 「オレ、好きな人いるし」 「…そうですか…」 小声で相槌を打つと、カカシが溜め息を吐いた。 「失礼します。こちらチョコレートフォンデュになります」 二人の店員が来て、一人目が大きな鍋をテーブルの真ん中に置く。 二人目が一口サイズにカットしたフルーツやパンの載ったバットを並べた。 「ごゆっくりどうぞ」 鍋の中にはたっぷりのチョコレート。 「とっておきのメニューって、これだったんですね」 「うん…。ま、食べながら…話そっか…」 今さっきまで業務計画だとか、婚約解消だとか、大人の話をしていたカカシの眼付きがすっかり豹変している。 もうチョコレートフォンデュに夢中、という顔だ。 イルカも細長い串の先にりんごを刺して、カカシが一口目を頬張るのを見届けてからチョコレートに浸けた。 「はー、幸せー」 チョコレートが垂れないように気をつけながら口に運ぶ。 酸味の利いたりんごと甘いチョコレートが絶妙だった。 冷たいりんごと温かいチョコレートの温度差も美味しい。 シャリシャリした新鮮なりんごは、そのまま食べても充分美味しいだろう。 「既に相手先の了解は得てるんだけど、明日、正式に婚約解消の手続きと挨拶に行くよ」 カカシの言葉が遠くから聞こえてくるような錯覚を起こした。 イルカの日常とはスケールが懸け離れている。 婚約なんて一大事を、道端の石ころに躓いたかのように通り過ぎて行くなんて。 相手の気持ちを考えると、イルカには到底出来そうもない。 死ぬまで夢に見そうだ。 「口に合わないですか?」 「いっいえっ、美味しいです」 「本当に?…あんまり良い顔してないから」 「すいません…。でも、本当に美味しいです」 そんなに酷い顔をしていたのだろうか。 永遠に関係なさそうな話なのに、つい深くまで考えてしまった。 とても複雑な感情がイルカの中で渦巻く。 表面上では喜んでいるが、深くまで考えると切なくなるような気がする。 胸がじりじりした。 気持ちの整理を付けたくて、急に一人になりたくなった。 ss top okashi index back next |