注文したものは揃ったのに、店員がテーブルへ寄ってきた。

コードレス電話の子機を手に持っている。

「はたけ様、お電話が入っております」

「えー、マジで?電話ヤだから、ケータイ切っといたのに」

店員が申し訳なさそうに頭を下げている。

「カカシ先生、俺トイレに行ってきます」

レストランにまで掛かってくるのだから、きっと仕事の電話だ。

イルカがいたら話しにくい事もあるだろう、と思って席を立つ。

前にもカカシと一緒にいる時に電話が掛かってきた事があった。

その時は携帯電話の電源を切っていなかった事を悔やんでいたけれど、切っていたとしても店に掛かってきていたに違いない。

トイレの照明もフロアと同様に控えめだった。

用を足し、手を洗い、洗面台の鏡に映った自分の顔を見た。

照明のせいか、実際そうなのか、余り顔色が良くない。

確かに、こんな顔で物を食べていたら、美味しいようには見えなかったかもしれない。

鏡に向かって、わざと笑顔を作ってみた。

表情を作った事で顔に影が出来、却って憐れっぽい顔になった。

もう見ているのが嫌になって、唇を噛んで目を逸らす。

カカシはまだ話し中かもしれないが、長い時間トイレに篭もるのも不自然だ。

仕方なくイルカはトイレを出て、最初に案内されたボックス席へ向かった。

席に着く途中で若い女性二人組と擦れ違った。

店の雰囲気と似つかわしくない二人は、なぜかはしゃいでいて、落ち着いた空間の中で悪目立ちしていた。

席に着くと、カカシの電話は終っていて、鍋に串を浸けている所だった。

「大丈夫なんですか?」

マイペースで食べているカカシに急用が入ったようには見えないが、念のために尋ねた。

「今日はイルカさん最優先」

口をもぐもぐしながらへらっと笑う。

嬉しそうなカカシの、無邪気な笑顔。

チョコレートフォンデュに伸ばそうとした手が止まり、しばらく見惚れた。

イルカに向けるには勿体ないと思えるような、きれいな顔。

すると、カカシの視線が、わざとらしくステンレスのバットの方へ逸らされた。

「…一緒に残ってた先生とは、いつも遅くまでいるの?」

「アヤメ先生ですか?最近は、そうです。結構遅いです」

「それは、個人的な感情も入ってる?」

カカシの眼はチョコレート鍋に向き、取ったばかりのあんずを浸けている。

眼を合わせて話さない所を見ると、少し後ろめたさがあるのか。

カカシの言う個人的な感情とは、好きとかそういう意味の事だろう。

アヤメに対してそんな気持ちはないので、正直に話した。

「彼女に恋愛感情はありません」

「ホントに?何度か車で一緒に帰るトコ、見た事あるけど」

カカシが本当に聞きたい事が、徐々に見えてきた。

口振りからして、やきもちを焼いているのだ。

自由に恋愛が出来る、と言ったカカシの最初の候補がアヤメだったという事。

ちくっ、と胸に小さな痛みが走ったが、気付かれないように苦笑した。

「…アヤメ先生美人だから、彼氏はいると思うんですが…」

意地悪をするつもりはないが、本当の事を言った。

カカシの顔が、出端を挫かれたためか、さぁっと曇った。

それを見て、悪い事をしたのだと気付いた。

もう少し気を遣って、優しい言い方をすれば良かった。

「あの、でも、本人に確認してみないと本当の所はわかりませんから」

自分の失言を、自分でフォローするのはおかしいが、言わずにはいられなかった。

その代償に、イルカの胸がズキズキと痛み出す。

こういう事を偽善というのだろうか。

偽った善は、行なった本人に罪悪感を生む。

カカシの方を向いていられなくて、俯き加減で手元のカップを見た。

「…好きな人に気持ちが伝わらないのってツライなぁ…」

「…そう…ですね…」

カカシの呟きは、実にイルカの的を射ていて、気の利いた言葉を返す事も出来ない。

「ま、オレは諦めないけどネ」

沈んでいたカカシの声に活力が戻っていた。

若くして功績を残すような人物は、人格だって立派な人なのだ。

くよくよせずに、どんな時でも前向きで。

「そうそう、23日、朝10時ぐらいでいい?迎えに行くからさ」

「そんな、申し訳ないです。俺が…」

「イルカさんを迎えに行きたいの。いいでしょう?」

優しいくせに強引な言い方で、巧く丸め込まれた。

それからしばらく他愛ない会話をして、遅いからそろそろ帰ろうという事になった。

会計は、アンコの店で一度奢られている手前、今度はイルカが払う番だと心得ていた。

テーブルの上や側面を見て伝票を探す。

一応シートの側面も見たが、伝票なんて掛かっていなかった。

立ち上がったカカシの手にも、伝票はない。

レジで精算をするタイプの店なのかと思って、大人しくカカシに付いて行く。

会計カウンターで立ち止まると思ったら、そこを素通りした。

そのまま店を出ようとしている。

店員もおかしな顔一つせずに、頭を下げてありがとうございましたと言った。

イルカだけが、支払いがどうなっているかで戸惑っている。

「カカシ先生、お勘定は…」

「もう済んでるよ」

「え?あの、今日は俺が」

「まあまあ」

鞄から財布を出そうとした手を掴まれた。

拘束する力は弱いのに、ぐいぐい引っ張るカカシに逆らえない。

「イルカさんの貴重な時間を費やしてもらったんだから、支払いぐらいしないとバチが当たるでしょ」

余りにキザっぽい事を言うので、イルカは言葉を失った。

こんな台詞が自然に出てくるなんて相当な女ったらしだ。

手を引かれたまま、バイクの所までやって来た。

今日はここでさようならだ。

この辺りの道なら知っているから、電車でもタクシーでも帰れる。

そう思っていたら、カカシからヘルメットを渡された。

「家まで」

そこまでさせるのは申し訳なくて辞退した。

あと、バイクに乗るのが怖いという理由もあったから。

そうしたらカカシは、夜道は危ないだとか、お金が勿体ないだとか、適当な理由を並べ立てた。

変な所で意地を張るから、結局イルカが折れて、送ってもらう事になった。

大雑把に家の場所を伝え、近くになったら案内すると言って、準備の整ったバイクに跨る。

どのくらい走ったのかはわからないが、カカシは地図も見ないで正確に家へ近付いた。

最初と違い、イルカに周りを見る余裕が出るくらいの速度で運転してくれた。

大分近くまで来たので、それを知らせるために背中を叩いた。

路肩に寄せて、一旦停まる。

振り向いたカカシがヘルメットのバイザーを上にずらし、顔の一部を覗かせた。

声が通りにくいからなのだろう。

イルカもバイザイーを上げようとしたら、一足早くカカシの手によって行なわれてしまった。

カカシの顔が近くて、遮断するものもなくて、目が合った途端に恥ずかしさが込み上げた。

「ん?」

「…二つ先の交差点を左に入って、一つ目の角を右です…」

にこっと笑って返事をされ、カカシの手によってバイザーを下げられる。

カカシが正面へ向き直り、かなりの低速で走り始めた。

この速度なら、背中にしがみ付かなくても怖くない。

力を緩めてカカシのブルゾンに掴まる。

最後の角を曲がった所で降りて、バイクを転がしながらゆっくり歩いた。

「あれです」

イルカが指差したアパートは、カカシの住まいとは程遠い造りをしているが、恥じる事などない。

「三階の左端の部屋です。すいません、こんな所まで。ありがとうございました」

「言い出したのオレだし、気にしないで。…あ、あの、家の電話番号、聞いてもいい…?」

「え?電話番号ですか?…もう職員名簿とかでご存知なのかと思ってました」

「ああ、…なんか、そういうのって、職権乱用っぽいでしょう?だから」

理事が学校の職員名簿を見るくらいで、職権乱用に当たるのだろうか。

鞄からメモ用紙とボールペンを出して、自宅の電話番号を書き込んだ。

すっと渡すと、カカシが嬉しそうに微笑む。

「じゃぁ、23日の10時に迎えに来るから」

手を振って、カカシは猛スピードで走り出した。

あっという間に見えなくなる。

そして、次にカカシを見たのは、考えていたよりも一日早い、翌朝のテレビ番組。

新人グラビアアイドルとツーショットで写っている、スポーツ新聞の一面だった。










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2004.05.10