電話が繋がった事に驚いていたカカシは、電話越しでもかなり焦った様子だった。

もう少し落ち着いてほしくて、わざと言葉にゆとりを持たせる。

「どうしたんですか?」

『すいません、ごめんなさい。オレ、すっごい楽しみにしてたのに』

カカシは一人で、あー、もー、うー、と意味のない単音をランダムに並べる。

『今事務所なんだけど、ああっ、もう、なんでオレっ』

「どうしたんですか?」

『イルカさん、本当に…ごめんなさい。明日、こっから出られそうにない』

電話の向こうで、カカシが自己嫌悪の言葉を独り言のように言い連ねている。

こっから出られそうにない。

それだけで、カカシが寄越した電話の用件はイルカに伝わった。

明日の予定はキャンセル。

『記者に囲まれててっ、秘書達もしばらく大人しくしてろって』

「明日はナシになったって事ですね』

『ホンットにごめんなさい、っていうかオレ、ああっ、どうしてっ、せっかくっ』

「わかりましたから。落ち着いて下さい。少し休んだ方がいいですよ」

じゃぁ失礼しますね、と言って電話を切った。

カカシも混乱しているようで、喋っている事に脈絡がない。

頭の整理がつくまでは、秘書達の言う通り、大人しくしていた方がいいだろう。

数分おきに掛かっていたという電話は、カカシからのものだったと確信した。

カカシは物事への責任感が強い人なのだ。

その証拠に、出来るだけ早くイルカと連絡を取ろうと、一日中電話し続けてくれた。

たかがイルカとの予定のキャンセルに。

急に精神的な疲労感がどっと押し寄せた。

ストレスのような、焦燥のような、落胆のような、どれでもないような、どれでもあるような。

カカシの女性問題を、朝のニュースで見ても深く考えなかったのは、明日を楽しみにしていたからだ。

二人で出掛ければ、そんな事などどうでもよくなるだろうと、自分を誤魔化した。

心に膜を張ったのだ。

最近は浮かれるような出来事がなかったから余計にショックで。

そういえば、今朝は後片付けを放って出勤したから、食器が水に漬かったままだ。

こんな些細な事ですら、脱力する原因になる。

流しへ行き、泣きたい気分で蛇口を捻ろうとしたら、後ろで電話が鳴った。

今度は何だと思って、沈んだ気持ちのまま受話器を取る。

「はい、うみのです」

『報道されてるのは全部ウソだから!お願いだから話を!』

カカシの声だった。

電話の向こうで、数人の声が聞こえる。

女性の声で、ケータイじゃないんだから名を名乗りなさいよ、と。

男性の声で、もう手遅れなんじゃねぇの、と。

女性の声は呆れていて、男性の声はからかいを含んでいた。

カカシの傍にいるという事は、先程言っていた秘書達だろうか。

『あ!すいません、カカシですっ。言い忘れた事があって』

「…何でしょう」

勝手に垂れてきた鼻水を何度か啜り、空いている手で目を擦った。

気を抜くと、また鼻水が垂れてくる。

『い、一緒に出掛けるの、中止にだけはしないで』

明日外出出来ないと言った本人からの難しい提案に頭を捻った。

中止にするもしないも、カカシがどうするかで決まる事だ。

イルカに決定権はない。

『延期にっ、ほとぼりが冷めるまでっ、絶対っ、約束っ』

急に電話の向こう側で、バタバタと騒がしい音がした。

カカシの声が遠ざかり、くぐもった声で何か言っているのが聞こえる。

『ああ、もしもし?イルカさん?私、カカシの秘書の紅という者です』

イルカには縁のなさそうな美人声が受話器から届いた。

『アスマ、カカシをちゃんと押さえてて。…あ、もしもし?』

「は、はい」

『カカシの奴、今あの通り混乱してて。一日中掛け続けてやっと繋がったものだから。ごめんなさいね』

「い、いえ」

『かなり残念がってるの。初めての終日デート用に新車まで買ってたのよ。大きい車だと助手席と運転席が遠いから、小さい車がいいってね』

デートという言葉に引っ掛かったが、仕事の都合上、二人組で作業しなければならない事をデートと揶揄する場合がある。

その延長表現だろう。

でも、もし紅の言う通り、わざわざ新車を購入したのなら、本当に住む世界の違う話だ。

『あいつが言いたいのは、約束破ってごめんなさい、でもまた誘いますから嫌わないで下さい、って事なの』

紅という秘書はカカシと違って落ち着いていて、話がわかりやすかった。

優秀な人間の周りには、やはり優秀な人材が揃うものなのだ。

『報道されてる件も今調べてる最中なんだけど、女の売名行為って事で固まりつつあるわ』

「…そうですか…」

『もしかして、その辺はどうでもいいって思ってる?カカシも不憫ねぇ』

紅の後ろから、また派手な音が立った。

その中で『イルカ』という声が聞こえたような気がしたが、いまいちはっきりしなかった。

『カカシが落ち着いたら、また連絡すると思うから。その時は相手してやってね』

それじゃぁ、と言って電話は切れた。

売名行為。

自分の名前を世間に広めるためにする行為。

日常生活では滅多に耳にしない言葉だ。

カカシは利用されたという事なのだろうか。

そうだとしたら、スポーツ新聞の一面に大きく載っていたツーショットの写真は何だというのだ。

カカシが女性の肩を抱いて、ぴったりくっついていた。

とても親しそうだった。

朝のほんの一瞬しか見なかった画像が、鮮明に記憶に残っている。

思い出したくなかった。

眉間に皺を寄せながら下唇を噛んだ。

明日は残った仕事をやりに出勤しよう。

一人で家にいたら、馬鹿な事ばかり考えて疲れそうだ。

「…ほとぼりって、どのくらいで冷めるんだろ…」

人の噂も七十五日というから、二ヶ月半くらいだろうか。

余り長いと、イルカは留学してしまう。

本当はこっちを出る前に、もう一度くらいカカシと逢いたい。

逢ってどうするという事もないけど、きっと見納めになるだろうから。

もしかすると、カカシの見納めは昨日だったのかもしれないと思った。

そう考えたらぞっとした。

二ヶ月くらい逢えないのがざらなのだ。

75日経ってもカカシから連絡がなければ、イルカからカカシへ連絡をしてみよう。

せっかく携帯電話の番号を教えてもらったのだ。

一度くらい、自分から動き出さなければいけない。

カレンダーで日にちを数えたら、75日後は2月6日だった。

まだまだ先は長い。

絶対に忘れないように、赤ペンで丸印を付けた。

クリスマスや年末年始の忙しい時期を挟むから、きっとカカシからの連絡はないだろう。

その頃のアカデミーは、学期末考査の準備が始まる少し前。

学期末考査が始まったら、次は来年度の引き継ぎや留学の準備で甘い事なんて考えていられなくなる。

不安で今にも震えそうな手足に力を入れて、赤い丸印をじっと睨んだ。










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2004.06.06