7時半には家に居ると言った手前、7時過ぎには家に着いていたくて、アカデミーを6時半頃に出た。

今日は週に二度ある、ポトフ作り日。

買い物で材料の良し悪しを吟味する時間はなかった。

キャベツが少し高かったけど、他のスーパーや八百屋へ行く余裕もなく、諦めて買う事にした。

カカシの一日のタイムテーブルがどうなっているのか予想もつかないが、きっと忙しい合間を縫って連絡をくれるはずだ。

わざわざ設けてくれる貴重な時間なのだから、一秒たりとも無駄に出来ない。

家に着いてすぐにポトフの調理に取り掛かった。

野菜も肉も大きめに切って、ローリエの葉を2枚入れて、塩とコショウを振る。

あとは中火と弱火でゆっくり煮込んでおけば、中々美味しく出来上がるから簡単だ。

そこまで終えると、電話の前に簡易椅子を運んで腰を落ち着けた。

念の為に鉛筆とメモ用紙を準備し、いつ掛かって来てもいい状態にスタンバイした。

10分、5分、1分と徐々に7時半に近付いていく。

どくどくという心臓の音が耳に届き、膝に置いた握りこぶしに力が入る。

そして、7時半丁度になった。

イルカ宅の電話機は何も反応しない。

電話機と壁掛け時計を交互に見遣る。

今度は、1分、5分、10分と、どんどん7時半から遠ざかっていく。

もしかすると、今日は忙しくて電話する隙がなくなってしまったのかもしれない。

15分経ったのを確認して、のどが渇いている事に気付き、冷蔵庫へ行った。

一年中作っている麦茶をグラスに注ぎ、それを持って電話の前へ戻る。

冷たさがのどを通ると、頭の芯や体の芯まで冷えてくる。

悪寒が背筋を駆け抜け、全身に鳥肌が立つ。

手間を惜しまずに、温かい緑茶か何かを淹れればよかった。

もうすぐ8時。

諦め半分で緊張を緩め、明日の支度をするために立ち上がった。

電話に背を向け、机側へ寄って行く。

すると、途端に電話が鳴った。

さっと振り返って、ワンコールで受話器を取る。

「…はい、うみのです」

『カカシです。こんばんは』

半分は諦めていても、残りの半分は期待していたから、やっぱりほっとした。

電話越しに聞こえるカカシの声は穏やかで、前回とその前の電話の時とは大違いだ。

『すいません、打ち合わせが長引いちゃって』

仕事の最中なのだろう。

カカシから、ビジネス特有の張り詰めた感じがする。

言葉は砕けているのに、声には緊張感が残っている。

『20時半から知人の店でオープン記念パーティーが入ってるんで、ゆっくり話も出来ないんだけど』

「あの、じゃぁ、お話はまた今度にしますか?」

『それはダメ。で、イルカさんは、どこの国に留学するの?』

「え、っと、…フランス…と…イタリア…です」

いきなり本題に入って、もったいぶる気はないのに、言葉に詰まる。

『…フランス、イタリアっと。了解。出発の日時はもう決まってる?』

カカシの声の奥で、ペンのキャップを外すような音がした。

何かを書きながら電話しているのだろうか。

「はっきりとは決まってないですが、4月の始め頃には」

『じゃ、確定したら教えてね。…ところで、最近どう?』

今度は唐突に話が変わって、何も答えられずに黙ってしまった。

カカシが今日電話すると言ったのは、留学の事やアカデミーの事を聞くためだけだと思っていたから。

『いや、まぁ、その、元気かなあって。寒いから風邪とか引いてないかと思って』

「…あ、ああ、今の所健康です」

こちらの気配を感じ取ったのか、わかりやすく言い直してくれた。

こうやって普通に会話するのに、何だか違和感がある。

イルカにとって電話とは、用件を伝えるだけの役割しかない物だったから。

『そう、よかった。…何かイルカさん硬くない?もうちょっとリラックスしてよ』

「…すいません…」

緊張しているつもりはないが、電話に対して怖気ている自覚はあったので、語尾が小さくなる。

『あー、今困った顔してるでしょ。オレはね、イルカさんの顔見えなくたって、どんな顔してるのかわかっちゃうんだから』

魔法を使えるのだとでも言うように誇張した言い方が、子どもっぽくてわざとらしいから、つい笑ってしまった。

『あ、今笑ったでしょ。ね、何でもわかっちゃうんだから』

「そうですね」

『オレ、イルカさんが独立したいって言うなら、絶対応援する』

急に真剣な調子になった会話によって、イルカの表情まで真剣になる。

肉親の居ないイルカにとって、カカシのくれた言葉がどれほど励みになるか。

『すいません、オレ謝らなきゃいけない事、まだ言ってなかった』

「…謝る事…?」

感謝こそすれ、謝罪される事由はない。

『…マスコミの件、迷惑掛けて本当にごめんなさい。アカデミーにまで記者が来たって五代目が』

その話か、と思ったが、本音を言えば余り触れたくはなかった。

あの時記者に質問された嫌な内容を思い出す。

『イルカさんも何か聞かれた?』

カカシにはとても言えない。

記者というのは、あんな言葉をよく平気で口に出せるものだ。

「…いえ、俺は…」

隠し事は苦手だ。

早くその話題からは離れてほしい。

『イルカさんに何かあったらイヤだから、ああいうのとは関わらないでね。お願いだから』

カカシの口調は優しくて、イルカを心配しているのだと感じだが、その言葉の中にはもう一つの意味が込められている気がした。

口止め。

カカシとは二人で出掛けた事があるし、その時に話した内容はプライベートな事も含まれていた。

それに自宅の場所や、行き付けの店だって知っている。

イルカが持っているカカシの情報を欲しがっている存在は少なくないはずだ。

「…変な事言ったりしませんから」

『えっ、ちがっ、そういう意味じゃないよ!』

カカシがそういう意図で言った訳ではなくても、イルカには漏えいを防ぐ義務がある。

出来るだけ負担を掛けないように努力しなくてはいけない。

「…わかってますから」

『…あなたに逢いたいよ…』

「大丈夫ですよ」

カカシが不安がっているのが伝わって来て、言葉だけでも気丈に振舞う。

しかし、電話の向こうでイルカの表情を的中させたカカシにはばれているかもしれない。

眉を下げて情けない顔をしている事が。

『参ったな…。もうタイムアップだよ。もっと話していたいのに』

それまで気にならなかったカカシ側からの騒音が、一気に大きくなった。

車から降りたのだろう。

移動中の僅かな時間をイルカに使ってくれたのだと思うと嬉しかった。

「お忙しいのに、長々と申し訳ありませんでした」

イルカだってもっと話していたかったが、カカシが電話を切りやすいように社交辞令を口にした。

表面に出ていなくても、きっとカカシはイルカの内心を見抜いているから。

『…また電話してもいいかな』

こうやって、ちゃんと、イルカが求めるものを察してくれる。

「いつでも、どうぞ」

電話線でやっと繋がっている今の状態が切なくて、心臓の上の辺りをぎゅっと掴んだ。

カカシの寂しそうな声も、切なさを煽る。

こんな感覚は酷く久しぶりだった。

胸を占めるのはカカシの事。

「…俺から…掛けてもいいですか…?」

言うか言うまいか迷ったが、知らない内に口から零れていた。

『嬉しいなあ…。仕事で取れない時もあるけど、それでもよければいつでもどうぞ。着信履歴が残ってたら、こっちから掛け直すし』

また電話します、とお互いに言い合って切る電話は切なくて、でもとても幸せだった。










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2004.06.22