帰りのホームルームはいつも通り、順調に騒がしい。 生徒達を動揺させたくないから、学年末考査が終ってから退職する事を伝えようと思っていた。 来週からは試験休みに入り、出席日に何度か顔を合わせたら春休みに流れ込む。 そろそろ頃合いだろう。 「明日は和食の講習があります。自由参加ですが50人を超えた時点で締め切りますので、受けたい人は早めに集まって下さい」 和食の好きなサスケ、シノ、ヒナタが連絡帳にメモを取っていた。 ナルトやキバは早く外へ遊びに行きたくてそわそわしている。 これがいつものホームルーム。 「それから、先生は今年でアカデミーを辞める事になりました。連絡は以上です。じゃぁ、みんな気を付けて帰って下さい。解散」 授業中でも、実習中でも、ホームルームの時間でも、余り話を聞いていない子達は大抵『解散』の言葉だけはちゃんと聞いている。 聞いた途端に席を立って、さようならを言いながら逃げるように教室を後にするのだ。 それなのに今日は、珍しく誰も立とうとしなかった。 今までにないくらい静まり返っている。 「連絡は終わり。みんな帰っていいぞ。ほら、解散」 「イルカ先生、オレ最後の連絡よく聞こえなかったってばよ」 「あ、オレもー」 いつもよりは静かだが、少しざわついてきた。 「まったく。お前らはいつも聞いてないだろ。じゃあもう一度言うぞ。先生は今年でアカデミーを辞めます。以上」 さらりと聞き流してほしかったから連絡事項のついでに付け加えたのに、これではその意味がないではないか。 また教室が静まり返ってしまった。 イルカが大声で怒鳴ったって大人しくならない子達が、こんな時だけ動こうとしない。 本当に大人の思い通りにならない困った生徒達だ。 でも。 「やだっ、やだって!イルカ先生やめないで!」 がた、ばたばた、がし。 ナルトが席を立ち、教卓まで走って来て、イルカの腰にしがみ付いた音。 他の子達も、それに続いてがたがたと席を立ってイルカに寄って来た。 四方から服や体のあちこちを引っ張られる。 泣きながら縋って来る子もいて、ストレートな感情をぶつけられてイルカの眉が下がった。 なんとなく、こうなるかもしれないと思っていた。 「ごめんな、みんな。もう決まった事なんだ。戻って来た時にみんなの立派な姿を見せてくれよ」 手が届く子の頭を一人ずつ撫でていく。 このまま囲まれていたら、感情の波には逆らえないだろう。 あっさり泣き出してしまう。 まだ最終日ではないし、永遠のお別れでもないのに。 「オレもイルカ先生について行くってば…」 ナルトの弱々しい声に、ふわふわの金髪を必要以上に掻き回す。 兄のように慕ってくれたし、イルカも弟のように接していて、ちょっと特別な存在だった。 「ちゃんとまた会えるんだから…。次会った時にお前が一人前になってたら先生は嬉しいぞ」 大好きで大切な生徒達。 こんな有り様では終業式が思い遣られる。 泣き過ぎて、何も言葉が出なくなるかもしれない。 「俺もみんなに負けないくらい立派になって会いに来るから。な?だからみんなも頑張れよ」 周りのクラスでもホームルームが終ったようで、イルカのクラスの前が少しずつ騒ぎ始めた。 通りすがりの生徒がイルカを中心にした人間団子を見て立ち止まる。 中を覗くだけの生徒や、直接教室に入って来る生徒。 誰かがその子達にイルカが退職する事を伝えたために、団子は更に大きくなった。 これ以上騒ぎが膨れてしまうと収拾がつかなくなってしまう。 そうは思っても、素直にイルカを惜しむ生徒達を振り払う事が出来るほど薄情な人間ではない。 困りながらも涙を流す生徒をあやしていると、騒ぎを聞きつけた他のクラス担任が数人やって来た。 「すいません。退職の事いきなり伝えたから、みんな動揺しちゃったみたいで」 頭の後ろに手を置いて、騒ぎの原因と弱りきっている理由を告げた。 応援の先生達はアイコンタクトで意思を確認し合い、手分けして生徒達をなだめにかかった。 結局全員を帰し終えたのは、日没前ぎりぎりだった。 * * * * * 教員室に戻ってからも、落ち込んでいる訳ではないけれど、何だか沈んでいるような気分だった。 事情を知っている職員は気を遣ってくれて、特に声を掛けてくるでもなく、そっとしておいてくれた。 複雑な心境を持て余して、何度も頭を振った。 まるで頭の中が真っ平らになってしまったようだ。 そんな呆けた状態で残りの庶務を捌いてから、用もないのに急いで家に帰った。 原因不明の焦燥感が、何かに対して警笛を鳴らしていて。 一歩部屋に入ると不意に力が抜けて、靴を履いたままで玄関の僅かな段差に尻餅をついた。 さっきの事を思い出すと、すぐにでも涙が溢れてきそうで心許ない。 「っ…」 一人になった安心感からか、もう目に涙が滲んできた。 斜め上を向いて、しずくが零れ落ちないように無駄とも思える抵抗を試みる。 口を引き結んで、眉間に皺を寄せたけど、やっぱり駄目だった。 次から次に滲んでは溢れ、涙の跡が幾本もの筋を作る。 時には涙を流して精神のバランスを保つ事も必要なのだ、と自分に言い訳をする。 しばらく放っておいたらそのうち止まるだろうと高を括った。 他に涙を止める方法が思い浮かばなくて。 限りなく続くと思われた涙も、小康状態を経て、いつの間にか途切れた。 何度も目元や頬を拭ったハンカチは、水分を含んで少し重たくなっていた。 疲労を感じたので、その場にごろっと横になる。 急にカカシの声が聞きたくなった。 肉親のように優しい言葉を掛けてくれたカカシを身近に感じたい。 横たわったせいで反転した視界の中で、電話台へ目を向ける。 続けざまに、その延長線上にあるカレンダーへも視線を投げる。 まだ2月下旬。 バレンタインデーは終ったが、ホワイトデーが終っていない。 カカシの業種を考えれば、イルカの勝手な都合で電話をするとしても、後一ヶ月は我慢だ。 「…ホワイトデー…か…」 最初で最後だろうカカシの家へ訪れて、しばらくしてから見た嫌な夢を思い出した。 イルカは自分の店を持っていて、その店の近くでカカシがパティシエの選考会をしているという奇妙な夢。 色々な悩みが夢という形で幻覚を見せたのだ。 あれから何ヶ月も経つのに、不気味なくらい鮮明に覚えている。 悩みの一つであったカカシが婚約しているという問題は、幸いにも今は解消された。 しかし、あの時思ったように、この恋が成就する事は決してないだろう。 恋愛に発展しなくたって、人間として付き合って関わっていければそれでいい。 ふと、ある事を思い付いた。 カカシに逢いたくても逢えない、声を聞きたくても聞けないというのなら、その気持ちを代品で誤魔化せないかと。 バニラの香りのするコーヒーで。 つらい思い出だからと、記憶の隅に追いやっていた出来事。 つらさの原因だった美人の婚約者は、もうカカシとは無関係になった。 今なら、カカシの存在を感じる良いアイテムになると思う。 むくりと起き上がる。 カカシが淹れてくれたオリジナルブレンドと全く同じ物を用意するのは無理だけど、似た物ならなんとかなる。 床に寝転がっていたせいでスーツに皺が寄っているかもしれないが、早くコーヒーを手に入れたくて、そのまま慌てて家を出た。 今度カカシと話す時に、ブレンドのレシピを聞いてみよう。 錆びた階段を駆け下りる時の風に乗って、バニラの香りがふわっと甦った気がした。 ss top okashi index back next |