3月末日付けで退職になるから、3月一杯はみっちり業務を全うする事になっている。 生徒達は春休みに入った。 空いた教室では平日は毎日補習や特別実習を開いて、校内はそれなりに賑わっている。 イルカも講師をしたり実習助手をしたりと、今までの春休みと何一つ変わる所はなかった。 ただ少し違う所は、留学の準備を並行して行なっている事。 荷物を整理したり、向こうでの生活に関わる事の情報収集をしたり。 今住んでいるアパートも引き払うつもりなので、家財道具の事を大家さんに相談した。 まだ使える物を捨てるのは勿体無いからと、大家さんもイルカに同調してくれて、置いていく許可を貰った。 4月は一週間だけ中途半端だけど借りたいと言ったら、日割りで家賃を払う事を提案してくれた。 3年間も目一杯過ごした部屋だし、大家さんにはお世話になったし、ピカピカにして引き渡したくて、暇さえあれば掃除をしている。 そう、出発の日が決まったのだ。 日本に居るのも、あと2週間。 昼前の便で日本を出て、パリに着くのは現地時間で夕方くらい。 向こうでは最初のうちはホテルに滞在して、修行先が決まったらアパートメントを借りる。 五代目が、困ったら訪ねなさいと、フランスの職人を何人か紹介してくれた。 今の所、店の宛てはそれくらいだが、出来ればそこには頼らずに自分の力で何とかしたい。 現地で色々な店を回って、自分にとって一番良い店を探そうと思う。 言葉は学生時代と、最近では独学で勉強しているので、あとは現地で慣れれば何とかなるだろう。 人恋しくなったら、バニラの香りのするコーヒーを淹れればいい。 この前作ったイルカのオリジナルブレンドは、ガラス瓶に半分ぐらい残っている。 そういえば、ホワイトデーも終ったし、そろそろカカシに連絡をしても大丈夫かもしれない。 前回の電話で教えてほしいと言われた出発日も決まったので、それを口実にして。 実際はたった一人の旅立ちだけど、出発日を気にしてくれる人が居るだけで一人じゃない気がする。 何時頃に電話を掛けると繋がるのだろう。 カカシの移動中に電話出来るのが理想なのだけど、それは難しい。 とりあえず前回の電話が夜の8時前だったから、それを踏まえて、あの時と同じくらいの時間帯に掛けるとしよう。 だとすると、まだ何時間もある。 幸いにも、空いた時間にやる事は山ほどあるので、そんな待ち時間はあっという間だ。 楽しみな事が待っていると思ったら、自然に鼻歌を口ずさみ始め、足は勝手にキッチンへ向かった。 まずは夕飯の支度からだ。 にやにやしながら受話器を持って、大切にしているカカシの名刺を引き出しから取り上げた。 イルカから電話を掛けるのは初めてだから、結構緊張している。 番号を押す指先が震えていて、気の弱い自分に苦笑した。 一定の間隔で呼び出し音が鳴る。 耳に全神経を集中しているのがわかる。 そして、当然だが、何の前触れもなく回線が繋がった。 『…もしもしぃ?イルカー?ちょっとアンタァ、どこの店の娘よー?銀座?新宿?まさか六本木じゃないでしょうねぇ』 イルカです、と言おうとしていた口が、息を吸い込んだ状態で固まった。 『カカシ先生は私の常連さんなんだからぁ。変な粉掛けないでくれるー?』 何か言わなければと思うのだが、僅かに開いた口で小刻みに息を吸い込むばかりで、言葉が一つも出て来ない。 見開いた目が無駄に何度もまばたきを繰り返す。 『個人ケータイの番号なんてどうやって聞き出したのよー?教えなさ…』 受話器を耳に当てたまま、電話のフックを爪が白くなるほどぎゅうっと押した。 ツー、ツーと、感情のない音が始まる。 呂律のあやしさから、電話口の女性が酔っ払っている事は伺えた。 一方的にだが彼女が話した内容を考えると、クラブか何かで接客をしている女性従業員なのだろう。 以前聞いた事がある、カカシの秘書をしている紅という女性の声とは全然違ったし。 仕事にしろ、プライベートにしろ、カカシは今そういう店に居るのだろうか。 それとも、店以外の場所でそういう女性と会っているのだろうか。 彼女がイルカの名前を知っていた事にも驚いた。 何か勘違いをしているようではあったが、カカシが彼女にイルカの事を話したのだろうか。 カカシの言動を制限出来るような立場ではないが、イルカの事を女性との話の種にされるのは嫌だった。 こうやって幾つもの悪い状況を想像して、真実を知った時になるべく傷付かないように心の準備をする自分が憐れに思えた。 とにかくイルカにわかる事は、カカシが今電話を取って話が出来るような状況ではないという事。 イルカは自分の間の悪さに自己嫌悪した。 やはり自分勝手な都合でいきなり電話を掛けるなんて、発想から良くなかったのだ。 もしかすると、もう二度とイルカからカカシへ電話をする事はないかもしれない。 一度目の挑戦で失敗した事に再挑戦するには、相当なエネルギーが必要だから。 例え留学の出発日を告げられなくても、教えてほしいと言ってくれたカカシの気持ちだけで充分だ。 舞い上がっていた頭が一気に冷静さを取り戻した。 これは、自分の分をわきまえろ、という事なのだ。 カカシやカカシが属する世界に関わるよりも、イルカには古いアパートをきれいに磨いている方がお似合いだ。 自分を卑下する訳ではない。 イルカにはイルカに適した環境がある。 少し遅い時間だが、急に掃除がしたくなった。 他の事に集中して気を紛らわせたい。 3日前にも丁寧に掃除した風呂だが、もう一度丁寧にやり直そう。 水の流れる音は好きだし、マイナスイオンも身体に良いというし、風呂もきれいになって良い事尽くめだ。 一度大きく伸びをして、大股で風呂場へ向かった。 お湯を使うとガス代が勿体無いので、まだ冷たいけど水を使った。 裾を捲った、ズボンから剥き出しの足が酷く冷たい。 3日前に完璧に仕上げた風呂は、ほぼその状態を保っていて、結局は毎日の風呂掃除程度に収まった。 短い時間でも、爽快感と自己満足は良い気分転換になる。 冷えた足を暖めるためにヒーターのスイッチを入れた。 これではガス代をケチった成果が減ってしまうが、気分がすっきりしたからいいのだ。 ヒーターの前で膝を抱えて小さく丸まっていると、珍しく電話が鳴った。 テレビもラジオもつけていなかったので、静かな部屋の中で着信音ばかりが大きく響く。 急かすような間隔で鳴り続ける音に逆らって、わざとゆっくり立ち上がった。 まだ足が冷たいのだ。 ヒーターのぬくもりが名残惜しい。 「はい、うみのです」 『…あ…、カカシです。電話、くれたよね…?仕事中で取れなくて…』 玄人の女性が居る場で仕事中だったと言うカカシ。 事実を言っているのか、誤魔化しているだけなのか、本当の所はわからない。 でも、イルカ相手に誤魔化す必要なんてないから、きっと事実なのだろう。 どうであれ、あれからそんなに時間が経っていない今、イルカになど電話していていいのだろうか。 「知らなかったとはいえ、お仕事中に申し訳ありませんでした。大した用ではありませんので。…失礼します」 カカシが声をひそめている感じがしたので、早々に電話を切ろうと、別れの挨拶を告げた。 『あっ!待って!』 受話器を耳から離そうとした所で呼び止める声がした。 カカシは中々続きを言おうとしない。 もしかして、用もないのに条件反射で呼び止めてしまったのだろうか。 それならと思って、再び別れの挨拶を口に乗せようとした。 『…イルカさんの話を聞く前に、オレの話を聞いてもらってもいいかな…?』 やっぱり意識的に小さな声で話しているようなので、電話は日を改めた方が良さそうだ。 「カカシ先生、ご無理なさらないで下さい。お忙しいんでしょう。またにします」 そうは言いながら、次はないかもしれないとも思った。 『すぐ終るから!今、事務所から近い行き付けの店で商談中だったんですっ』 イルカの考えを見越してか、カカシが勢いよく喋り出した。 勢いはあっても声の大きさは控えめだ。 カカシのためを思うなら、切ってしまった方がいいに決まっている。 それが出来ないのは、カカシの態度から何か掴めるような気がしたから。 イルカへの思いが、何か掴めるような気がしたから。 受話器を握る手に力を込める。 風呂掃除の余韻なのか、手足が冷えていくような感覚に小さく身震いした。 ss top okashi index back next |