『店員に上着を預けた時に、個人ケータイもポケットに入れたままで…』 上着を預けた店員というのは、先ほどの女性の事だろうか。 『まさか馴染みの店の店員があんな事をするとは思わなくて。…もうこの店とは絶縁します』 カカシが、この店、と言ったという事は、今もまだ店内にいるのだろう。 やっぱり、電話なんてしていてもいいのかと心配になってくる。 『オレ…イルカさんからの着信、イルカ、としか表示しないようになってるんです。だから電話を見た店員が他の店の従業員の源氏名と勘違いしたみたいで…』 知らない声で名前を呼ばれた時は驚いたが、着信時に表示されるようになっていたのなら解せる。 店員が勘違いしたように、日頃からカカシは携帯電話に源氏名でホステス達の電話番号を登録しているのだろうか。 クラブだって飲食店だから、仕事で必要だからと言われれば納得させられてしまうけど。 中には個人的な付き合いのあるホステスもいるかもしれないが。 『呼び捨てで登録するなんて馴れ馴れし過ぎましたよね…。すいません…』 「いえ…。それは構いませんので…」 硬い声しか出て来なかった。 イルカが考えている事と、カカシが危惧している事の落差に、声が一層低くなる。 変に歪んだ唇からは、苦笑を漏らす事も出来なかった。 『すいません…本当に…』 イルカの様子に気付いたのか、カカシの声まで暗いものになっていた。 そんなカカシの声は聞きたくなかった。 でも、そうしてしまった原因はイルカにあるから、無理矢理にでも明るい声を出した。 「謝らないで下さい。元々は俺がいきなり電話したのが悪かったんですから」 カカシが押し黙った。 さすがに、そろそろ電話を切った方がいいだろう。 今度こそ別れの挨拶を告げようと、息を吸って目を閉じる。 『…今日…』 思い詰めたような声がしたので、続く言葉を待った。 『これから家に行ってもいいですか』 「えっ…」 胸がどくんと鳴った。 心臓が早鐘を撞く。 全く頭になかった事を言われて混乱して、色々な事が脳裏をよぎる。 『…直接逢いたくて…。もう限界。一時間以内には伺いますから…。それじゃ、また後で』 「え、あ、待って下さ…」 回線が切れた。 こちらの意見に耳を貸さない押しの強い口調だった。 言う前の沈黙を思えば、行くと決心してから口に出したような周到ささえ感じた。 別にカカシが家に来る事は全然構わない。 ただ、カカシは本当に来れる状況にあるのだろうか。 来るとすれば商談を切り上げてからになるのだろうが、そこまでして何もないイルカの家に来る目的がわからない。 逢えるのは嬉しいが、カカシに迷惑を掛けるのは嫌だ。 「…本当に来たらどうしよう…」 あの様子なら、確実に来るような気がする。 一時間以内にと、具体的な時間まで表明していた。 ならば、イルカには待つしかないのだと思う。 腹を括って、大人しく座布団の上に正座して待つ事に決めた。 でも、じっとしていられない。 そわそわして落ち着かない。 ふと、人が来るのなら部屋を片付けなければいけないと思ったが、毎日掃除しているので特に散らかってはいなかった。 浮いた腰を再び座布団へ戻す。 カカシが来たら何を話そう。 そういえば、本題の出発日の事なんて、欠片も話せなかった。 「あ…コーヒー…」 カカシにバニラコーヒーのレシピを教えてもらおうと思って、はっとした。 今イルカの家にはバニラコーヒーしかない。 カカシに思いを馳せるためのコーヒーしかないのだ。 そんなものカカシには出せない。 幸い、電話が切れてから、まだそんなに経っていない。 上着を引っ掛け、急いでコンビニへ向かった。 舌の肥えたカカシには失礼かと思ったが、選べるほど種類がなかったので、インスタントの小瓶を一つ買った。 コンビニと家の往復は十数分。 カカシが来るまでにはまだ余裕がある。 小さなビニール袋を持ってアパートの塀に差し掛かると、この辺りには不似合いな高級大型バイクが停まっていた。 ヘルメットが一つ、ハンドルに引っ掛かっている。 見覚えがあった。 イルカが初めて見た時はヘルメットが二つだったけれど、間違いない。 頭で考えるよりも先に身体が反応して、自分の部屋を見上げていた。 イルカの部屋の前で、二人の男が道路に背を向けた格好で何か話している。 急いで階段を駆け上がった。 「うみのさん!」 「イルカさん!」 二人の男の声が重なった。 一人はイルカの部屋のお隣さんで、もう一人はスーツ姿のカカシだった。 「この人知り合い?うみのさんの部屋の前をうろうろしてて怪しいから、声掛けたんだけど」 「怪しいって…。ちょっとイルカさん、この人こそ誰なんですか?」 お隣さんはカカシを警戒して、イルカとカカシの間に入り、身体を盾にした。 「…あんた、なんなの?」 カカシが苛ついた低い声を発する。 「カカシ先生、お隣さんです。…すいません、勤め先の関係者なんです」 これ以上カカシから刺々しい言葉が出てこないように、彼が隣り部屋の住人である事を告げる。 次にお隣さんに向直って、カカシがアカデミーの関係者である事を告げる。 「ちょっとコンビニへ行っていて」 ビニール袋を目の高さに掲げた。 「こんな時間にご迷惑お掛けしてすみません。ありがとうございました」 ぺこっと頭を下げる。 「いーえ。知り合いならよかった。最近物騒だからね」 そう言って、お隣さんは自分の部屋に帰って行った。 春の夜はまだまだ冷えるのに、わざわざ出て来てくれるような親切な人。 彼とも、もうすぐ関わりがなくなってしまうのだと思うと、少し寂しい。 「イルカさん…」 カカシが横に居るのに、他の人の事を考えている場合ではなかった。 さっきのカカシの冷たい口調は、不機嫌を露わにしていた。 さぞ怒っているのだろうと思うと、居た堪れなくなってくる。 「誰も居ないから…、急に行くって言ったから…、嫌で逃げられたのかと思ったよ…」 弱々しい声で言うくせに、優しい目をしてイルカを見つめてきた。 その目からカカシの意思が伝わって来るような気がした。 イルカに逢いたかったのだと言っているような。 でもそれは都合の良い思い込みなのだと、自分を戒める。 「すいません、今開けますから」 鍵を開けるためにカカシの横をすり抜けた。 先にイルカが部屋に入り、躊躇いながらもカカシが続いた。 若干緊張しているように見えるのは、古いアパートの狭い部屋が珍しいからだろう。 「お邪魔します」 「どうぞ。何もないですけど」 座布団が一枚しか出ていなかったので、そこにカカシを促す。 コンビニに行くまでイルカが座っていたから、生温かさが残っているかもしれない。 買って来たばかりのインスタントコーヒーを開けた。 インスタントでも、開けたばかりなら、良い香りがするのだ。 砂糖は、今日仕事だったカカシは3つで、イルカは2つ。 淹れたてのコーヒーと、用意した砂糖5つをテーブルへ運ぶ。 「商談、早く終られたんですね。思ったより早くいらっしゃったので。お待たせしてすいません」 「気にしないで。あっちは秘書達に任せてきたから。オレは一旦家に帰って、これを取りに行ってたの」 テーブルの上に載った、小さ目で幅の広い紙袋を指差す。 身軽なカカシが持っていた、今日唯一の荷物だった。 「秘書の方だけでよかったんですか?」 「うん。うちの秘書達は優秀だから。それより、これイルカさんにあげようと思って」 「何ですか?」 「すごいんだよ。最近のはテレビも見れちゃうんだって」 そう言ってカカシが出したのは、最新型の携帯電話だった。 ss top okashi index back next |