風呂掃除をした後から続いていた肌寒さはなくなっていた。

両親を亡くした時から心に吹き続いていた冷たい風さえ止んでいた。

直に触れているぬくもりが、何でもない安らぎを与えてくれる。

「年末から春先まで忙しいのはいつもの事なのに、こんなに苦しいと思ったのは初めてだったよ」

本当に苦しそうなカカシの声が染み込んで、イルカも何だか胸が痛い。

頭に唇を押し当てる気配がして、じわじわと顔が赤くなった。

かけがえのないものを大切にするような繊細なタッチが気恥ずかしい。

「ずっとあなたが好きで、でもオレには婚約者が居て…。婚約解消したら、今度は忙しくて全然逢えない」

美人で上品な婚約者の顔が思い浮かんだ。

可も不可もない、平凡な自分とは比べ物にならない素敵な人だった。

過去に関係を持った相手の事を気にするのは狭量かもしれないが、余りにもイルカと違い過ぎて、つい考えてしまう。

「折角のデートもバカ女のせいで行けなくなって」

バカ女とは新人のグラビアアイドルの事だろう。

カカシを利用して売名行為をした女性。

胸が大きくて、腰が細くて、スタイルは抜群だったし、顔も可愛かった。

やはり、秀でる所のない自分とは懸け離れている人。

「年が明けたら、いきなりあなたが退職者リストに載っていて」

カカシが物凄い剣幕でアカデミーに電話して来た事があった。

イルカは実習を抜けて、五代目の所まで電話を取りに行ったのだ。

話が終って電話を切った後、気持ちがしぼんでしまって、午前の実習は五代目に任せる事になってしまった。

「このままじゃヤバイ、何もしなかったら絶対後悔するって思った」

イルカは黙って聞いていた。

自分へ向けられていた大切な思いを一滴も零さないように。

「どうしたらいいか考えて、それで立案したのがヨーロッパでの事業拡大計画」

日本からヨーロッパへだなんて、そう易々と手を出せるものではない。

オーナーによる立案とは、それほど発言力が強いのだろうか。

カカシの考えは規模が大き過ぎて、イルカの狭い視野では見当もつかない。

「あとはね、総責任者の渡航日が決まれば、いつでも向こうに行ける」

総責任者とはカカシの事だろう。

カカシのグループは、イルカが考えるよりも遥かに巨大な企業のようだ。

「一国目はね、イルカさんがフランスに行くって五代目に教えてもらった時に即決した」

「五代目…」

「うん。退職者リストの時の抗議がかなり効いたみたいで、すぐに教えてくれたよ」

カカシを見上げると、優しく微笑んでいた。

見惚れそうになりながら、頭の隅ではカカシに好意を寄せていった女性達の事がよぎる。

こんな顔を見せられたら、何とも思っていない女性でもカカシを好きになってしまう。

そうやって幾らでも選べる中から、カカシはイルカを選んでくれた。

若気の至りによる一時の感情だとしても、とても光栄な事だと思う。

イルカでいいのか、とか、毛色の違う男への興味なのか、とか、過去の面影をイルカに重ねているのかも、とか、複雑な思いは他にもたくさん残るけど。

「なんでそんなに不安そうな顔するの。これからは一緒なんだよ?」

これからは一緒でも、いつまで一緒なのかわからないではないか。

最初から考えたって仕方ない疑問を振り払うように、首を左右に振った。

何でもない、という意味も込めて。

心に吹いていた冷たい隙間風を止めてくれたカカシと、カカシの許す限りは傍に居たらいい。

それだけだ。

「…俺は何も持ってませんけど…、カカシ先生が俺で良ければ…、その…、よろしくお願いします」

「何もなくたって、イルカさんが居れば充分。でも…。そうやって改めてお願いされると、嫁に貰うような気分になるなあ」

『嫁』という言葉に素早く反応して、イルカは両手でカカシの胸を押し返した。

腕の長さ分カカシの身体から離れて、まじまじと顔を見つめる。

「オレの方こそ、不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」

カカシ自らイルカから距離を取り、座布団一枚分くらいのスペースを空ける。

ジャケットの襟とネクタイと居住まいを正してから、真剣な顔で頭を下げた。

畳に額をべったりくっ付けて、中々顔を上げようとしない。

「本当に…お願いします。オレを…どうか…見捨てないで…」

「そんな…カカシ先生、頭、上げて下さい」

カカシの肩を掴んで引っ張った。

震えるくらい力を込めた所で、ようやく顔を上げてくれた。

イルカと目が合うと、がばっと音がしそうな勢いで抱き付いて来た。

「…絶対だよ…。約束だよ…」

イルカもカカシの背に手を回して、そっと抱き締める。

しばらくそのまま動かなかった。

「…出発の日は決まった?」

落ち着きを取り戻したカカシが抱き締める腕をほどいた。

取り乱した所を見られたと思ったのか、恥ずかしそうにして視線を外す。

意外と可愛らしい面もあるのだと気付いて微笑んだ。

「はい。それでさっき電話したんです」

「あ…、そうだったんだ…。ごめんね…」

「気にしないで下さい。仕事中に掛けてしまった俺が悪いんですから」

少し俯いたカカシに、イルカの方から詫びを入れる。

「出発は2週間後です。実はまだ五代目にも言ってないんです」

「オレが最初?…なんかそれ…すごく…嬉、しい…です」

カカシがイルカに向き直った。

唇を一文字に閉じて歯を食いしばり、笑みを噛み殺しているのがわかる。

本当にとても嬉しそうだ。

「オレも同じ便で行きます。何便?」

「えっと…、四百…、421便です。でも俺はエコノミーですよ」

カカシはビジネスクラスかファーストクラスを利用していそうだ。

だから同じ便で行ったとしても、搭乗中は離れた別々の席での移動になるだろう。

「ま!それは何とかなるよ。…ちょっとごめんね」

カカシがジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。

2、3回ボタンを押してから、耳に当てる。

「フランス行きの日、決まったからさ。2週間後の421便。予約しといて。じゃあね」

もしもし、すらなく、用件だけを簡潔に伝えて電話を切った。

「ふう。やっと肩の荷が下りた感じー。フランス楽しみだね」

カカシだって仕事で行くのに、ただ遊びに行くような軽い調子だ。

イルカも楽しみではあるが、不安や緊張は抱えている。

アカデミーを辞めてまで行く修行なのだ。

遊び半分では、身に付くものも身に付かなくなってしまう。

「そんな顔しないで。大丈夫だから。だってオレの出身地だよ?安心して。ね?」

「えっ、出身地なんですか?」

では、フランス行きはカカシにとって帰郷を兼ねていたのか。

だからこんなに楽しみにして、嬉しそうにしているのか。

カカシの故郷だと思うと、ちょっとだけ緊張が緩む。

「うん。でも、あのね、出身地だけどね、一応イルカさんにはケータイ持っててほしいんだけど…やっぱりダメ?」

出身地と携帯電話を結び付けるのは、こじつけのような気がした。

よく知った土地だとしても、連絡用に持っていて損はないという事が言いたいのだとは思うが。

「携帯電話は留学祝いなのに、カカシ先生も同じ所に行くんですね。なんか変です」

「うっ、その、まあ、あれは…。あの、ダメ?」

「本心を言えば…抵抗はありますけど…。お金も掛かるし…。でも、カカシ先生がオレと連絡を取るために用意してくれた物だから…」

「じゃあ!いいの!?」

こくん、と頷く。

「…さっき断ったのは…」

理由をちゃんと説明した。

一度目は断って、二度目は受け入れるなんて、カカシの心を試したとか、解っていて弄んだとか、そう思われるのは嫌だったから。

「…ごめんね…。でも、ありがとう」

『ごめん』と『ありがとう』なんてありふれた言葉が、とんでもなく身に沁みた。










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2004.09.11