上忍控え室の窓から覗く外の景色は、すっかり夜の帳が下りていた。 それなのに、まだゲンマは現われない。 と、そこへ、ドアのない控え室の壁をドアの代わりにノックしたトントンという音が聞こえた。 「あ、カカシ上忍、いらしたんですか。火の後始末には気を付けて下さいね」 「了〜解」 巡回の中忍だった。 応接ソファーの中心に置いてある、山になっている灰皿を見て言ったのだろう。 一時間ぐらい前までアスマを話し相手にして、ゲンマを待つ暇を潰していたから。 壁にかかっている時計を見れば、夜の9時を回っていた。 「あいつ遅いな…。まさかバックレたんじゃないだろうな…」 ただ、イルカの事を聞かせてほしいだけなのに。 今、カカシははっきりと自覚していた。 イルカを好きだ、と。 しかも、もしかすると、初めて二人で飲みに行った時に好きになっていたのかもしれない。 好きでもない人物と何度も杯を酌み交わしたりしないし、告白されたからって男相手に欲情なんてしない。 ましてや出来る限り長く一緒に居たいなんて思わないし、その方法を真剣に考え込むなんて以ての外だ。 それに、イルカに別れを切り出された時に、元々は遊びだったじゃないかと自分に言い聞かせようとさえしていた。 それこそイルカに気持ちが向いていた証拠ではないか。 あの時に気付いていれば、イルカは任務に行かなかったかもしれないし、何日も顔を見られなくなるなんて事もなかったかもしれない。 でも今更後悔したって、もう遅い。 馬鹿なはたけカカシという男は、イルカとの決別に同意してしまった。 頭から離れない、あの時のイルカの顔がまた蘇えってきた。 安易に同意しただけではなく、酷い事を言ってイルカを傷付けた。 本当にどうしようもない自分が許せない。 だって、あの時。 自分が酷い事を言ってイルカを泣かせておいて、あまつさえ泣きたいのは自分の方だなどと勝手過ぎる事を思っていた。 ごめんなさい。 すいませんでした。 頭の中では、もう何度言ったかわからないけど、まだ言い足りない。 何百回も、何千回も、何万回でも言い続けるから。 だから。 「カカシさん!すんません!急いで前線に戻る事になったんで、詳しい話は今度にしてもらえませんか!」 カカシの思考を止めたのは、ゲンマの切迫したような焦ったような声だった。 「遅かったくせに、キャンセルかよ」 ゲンマだって好きで遅くなったわけではないのだろうが、イルカの事となると話は別だった。 良くないとは思いつつ、つい、やつあたりの対象にしてしまう。 「ちょっと、状況が急展開しましてね!」 「任務なんだろ?しょうがない。ま、がっかりしたけど」 「すいません!次は必ず!」 本当に急いでいるようで、ゲンマはすぐに姿を消した。 次は必ず、と言った彼からは何か別の意味が含まれていた気がしたが、もう追及する相手はいなくなっていた。 任務が急展開したと言っていたが、イルカは大丈夫だろうか。 * * * * * 単純な事だった。 どうしてイルカが前線から部隊長に推薦されたのか。 「部隊内の一人が言い出したのがきっかけのようでした」 ゲンマは火影の執務室の奥にある応接室で、正面の火影へ向かって状況報告をしている最中だった。 そもそも、ゲンマがイルカが参加した部隊の連絡係を担う事になったのは、火影直々にゲンマへ依頼されたからだった。 イルカの事を我が子のように可愛がったあまりの杞憂から。 「常駐で急変もない前線へ、心の癒しを求めたのが始まりだったそうです」 火影はふむふむと頷いた。 退屈したり、イライラしている者が多かったのは事実だった。 「しかし、あやつがよく許可したものじゃな」 「はい。やはりそこが引っ掛かっていた部分だったのですが」 火影が『あやつ』と言ったのは、イルカの配属された第二部隊の上にあたる、第一部隊の隊長。 つまり、あの任務の全てを取り仕切る大隊長の事。 「彼は前線にイルカを呼ぶ事で、イルカの甘ったれた忍者魂を叩き直したかったと言っていました」 「あやつもまだ青いからのう。理想が高すぎるのが欠点じゃ」 「ええ。それで彼がイルカ一人をテントに呼び付け、事が大きくなりました」 イルカ派の忍は大隊長がイルカを良く思っていない事を知っていて、イルカ一人を呼び出して何をするつもりなんだと大騒ぎした。 怪我させるつもりだとか、拷問でもする気だなど、不明瞭な情報が流れ、一部では犯そうとしているといわれる事もあった。 大隊長派の忍がそんな事はないと大隊長を庇い、イルカ派と揉めた。 そして、イルカも大隊長も隊の忍を全員集め、事情説明をし、誤解を解き、一件落着した。 「そうか。よくわかった。ならばイルカは里に戻しても異論はないじゃろ」 「はい。イルカに来てほしいと言った忍は皆、問題を起こして悪かったと謝罪しておりました」 前にも進めず、後ろにも下がれない前線にとって、イルカは充分仕事をしたといえる。 やり方は良くなかったが、時には鬱憤を発散させて、隊の心体のバランスを整える事は悪い事ではない。 特にイルカ派の忍は、彼のおかげで見た目にもわかるほどリフレッシュできたようだった。 「では、正式にイルカに帰里を要請する」 「御意」 ゲンマはすっと起立し、深々と一礼すると、応接室を後にした。 そして、火影の執務室を出て、一般棟へ着くまでは、ゲンマにも特別上忍の風格が満ちていた。 しかし一般棟に着くなり盛大なため息を吐き、俯き加減で背を丸めた。 「どうしよ…」 自分のポーチを撫でて、また一つため息を吐いた。 「あ!そうだ」 急いでイルカに帰里を伝えなければならない事を口実に、次に里に戻って来るまでカカシとの話を延長してもらおう。 まだ夕方の六時過ぎ。 急ぐには現実味に欠ける時間帯。 食事をして、風呂に入って、ちょっとゆっくりしてからカカシのところへ行こう。 * * * * * どうしようもないぐらい急いで見えるように。 「カカシさん!すんません!急いで前線に戻る事になったんで、詳しい話は今度にしてもらえませんか!」 「遅かったくせに、キャンセルかよ」 当たり前だが、機嫌の悪いカカシにテキトーな言い訳をした。 「ちょっと、状況が急展開しましてね!」 「任務なんだろ?しょうがない。ま、がっかりしたけど」 「すいません!次は必ず!」 意外とあっさり許してくれたカカシに、更なる追求を受ける前に、とっとと姿を消した。 里と外とを仕切るゲートまで全力疾走し、門番に行き先を告げた途端に力を抜いて走り始めた。 このペースで行けば、明後日にはイルカのいるキャンプ地へ到着するだろう。 今度こそ、カカシから託された手紙を渡さなければならない。 キャンプ地までの道は決して安全ではないので、ポーチの中にある手紙を何かの拍子に失さなければいいのだが。 この時は確かにそう思っていた。 そして、2日後。 現地に着いたのは昼頃だった。 馴れた手付きで結界に入口を作り、出る前と変わらない野営を確認できて一先ず安堵した。 大隊長のところへ顔を出し、戻った事を告げてから、汚れた手でも洗おうと川原へ行った。 次いで本題のイルカの元へ。 イルカ用のテントの前まで来て、カカシに預かった手紙を取り出そうとポーチの中を探った。 しかし、目当てのものを掴む事ができなくて、焦っていると、テントからイルカが出て来た。 イルカは妙な様子を醸している自分を見て首を傾げた。 「イルカ、三代目から帰里の要請が出たぞ」 きっと川原で手を洗って手ぬぐいを出した時に落としたんだ。 後で拾いに行けばいいと思った。 その日はイルカの送別会が開かれ、キャンプ地にしては大規模な宴会が催された。 酒が入ったおかげで、ゲンマの頭からカカシの手紙の事などすっかり消え失せてしまった。 |