ゲンマが到着した翌日に、旧第二部隊の隊長がキャンプに合流した。 イルカは彼に約一ヶ月分の引継ぎをし、忘れ物などしないようにしっかり荷物を纏めた。 今日中にキャンプ地を離れるので、最後の準備として移動中の飲料水確保のために川原へ行った。 あとは竹に水を注いだら、もういつでも出発できる。 川原には誰もいなくて、聞こえるのは水のせせらぎと、鳥の鳴き声と。 水際に近寄って水面に竹を宛てがうと、だいぶ温かくなった水温に自然と頬が緩んだ。 一ヶ月もすれば季節だって変わる。 初めての日はどこもかしこも新鮮に見えて、結界内をくまなく探索したっけ。 振り返れば誰もが親切で、キャンプに常駐している忍の6割が男性で残りの4割が女性だったが、みんなが新参者の自分を温かく迎え入れてくれた。 イルカの小隊長としての拙さだって、たった一ヶ月の間に何度フォローしてもらったかわからない。 里にとっては自分をここに派遣した事に何のメリットもなかったかもしれないけど、イルカにとってはとても充実した日々だった。 記念にといってはおかしいが、周囲の景色はちゃんと覚えておこうと、ゆっくり首を巡らせた。 ここは上流の方なので、川原に落ちている石はゴツゴツしていて大きい。 人里まで下ってきた川と違い、小さくて丸い石は見当たらないなと思った。 ふと、そんな石から、子供の頃にやった遊びを思い出した。 小さくて平らな石を川に向かって投げ、水面で何度跳ねるか競う川遊び。 父がすごく上手で、見様見真似でやったが、幼い自分には2回跳ねるのが限度だった。 やりたいなと思って、ここらに適当な石はないかと足元に目を凝らした。 「…?…何だ?」 手を伸ばせば届くところに、靴跡だらけの紙切れが一枚落ちていた。 すぐそこの森から人の靴底に貼り着いてやって来た土と、川の水分とで泥だらけになっている。 こんな川原に紙が落ちているなんて珍しいと、たぶんそう思っただけ。 そっと拾い上げると、見た事のある筆跡が目に飛び込んできた。 いや、目というよりも脳や記憶に直接飛び込んできたような衝撃だった。 恐る恐る、その文字を目でなぞった。 『お元気ですか』 『怪我や病気はしていませんか』 『カカシ』 間違いなかった。 これはカカシが誰かに送った手紙だ。 紙の状態からして、汚れてはいるがそんなに古いものではない。 紙を持つイルカの手が小刻みに震えていた。 誰だ。 カカシから手紙を受け取るような間柄にいる人物は。 男性か女性か。 どちらにせよ、カカシはもう新しい恋人を見つけたという事か。 よりによって、自分の滞在している部隊内に。 カカシの浮名は聞き及んでいたが、まさかこれほど手が早いとは思わなかった。 この様子だと自分との間にあった事なんて、きれいさっぱり忘れているのだろう。 意識的に触れていなかった核心を不意打ちされて、どうしようもなく涙が出そうだった。 眉間に力を込めて、キュッと唇を噛む。 こんな事で泣いてどうする。 たかが、前の恋人が今の恋人に送ったラブレターじゃないか。 はっきりと関係を絶った相手が何をしようが、口を出せる立場じゃない。 細く長く息を吸って、細く長く息を吐いた。 これじゃいけない、と頭の中ではわかっているのだ。 でも、カカシへの気持ちの整理なんてまだ全然ついていなかった。 やっていたのは、考えないようにする事と、思い出さないようにする事。 今でも好きだし、浅ましいとはわかているが、出来る事ならやり直したいとまで思っている。 救いようのない馬鹿な男。 自分に都合のいい綺麗事ばかりを並べて、起こり得ない世界への希望を胸に抱いて、厳しい現実から逃避する。 まやかしであるなんて事は充分わかっているけど、立ち上がって前に進むためにはどうしても必要な事だった。 カカシから、こういう手紙を送られた人が本当に羨ましい。 彼との付き合いは短かったが、イルカは一度だってこういう物を受け取った事がない。 メモ程度のものすら。 それなのに、こんなところに落とされて、無惨にも靴跡だらけになって、持ち主に必要とされていないなんて。 カカシの新しい相手は贅沢すぎる。 この手紙の価値がわからないような人なのだ。 誰かが拾って、そんな者の手に渡ってしまうぐらいなら。 誰にも気付かれていない今、密かに自分のものにするのは、…いけない事だろうか。 せめて。 この手紙に詰まっているカカシの恋慕を、ほんの僅かでも自分の元に留めておきたくて。 倫理に反する事だと咎める心と、そんな事をしても無駄だろうと咎める心。 それを振り払うようにもう一度唇を噛み、手で泥を払ってから、極めて慎重に手紙をポーチにしまった。 その手はまだ震えていて、自分の行動の惨めさに、一筋の涙がイルカの頬を伝った。 * * * * * 「遅かったな」 「…すいません。準備ができましたので、出発しましょう」 「…?大丈夫か?具合悪そうだけど」 「はい。問題ありません」 大隊全員とまではいかないが、かなりの人数がイルカとゲンマの見送りに来ていた。 一ヶ月間も寝食を共にしたら、誰だって情が湧くものだ。 口々に別れを告げられ、イルカは感動で泣きそうになってしまった。 弱った心に、優しく温かい言葉の浸透は早くて。 今泣いたら、泣き止む自信がない。 「みんな、元気で」 「じゃ、行くか」 結界に出口を作り、外に出ると、敵に勘付かれないうちに素早く閉じた。 さっそく、地図と方位磁針を取り出したゲンマが、帰路パターンの中からいくつか候補を挙げた。 遠回りだけど、一番安全な道と。 近道だけど、危ない道と。 距離的には遠回りにはならないが、運が悪いと樹齢の高い天然の木々達の妖力が作り出した幻術に捉まる道と。 「オレ的には悪運が強い方だから、三つ目の道で行きたいんだけど…」 ゲンマはそこで言葉を一旦区切り、イルカの全身を足元から頭のてっぺんまでゆっくりと眺めた。 一通り観察すると、困ったように眉を下げ、へらっと笑った。 「??」 「別に急いでないし、たまには遠回りしていくか」 「…?」 ゲンマが選んだ道に特に異論はなかった。 というよりも、自分よりも高位の者が決断した事項に口を出す必要はなかった。 頷いたイルカを確認すると、ゲンマが動き出した。 イルカはこのルートを通るのは実は初めてだった。 遠回りという事は里までは2、3日ぐらいだろうか。 「あ、勝手に決めちゃったけど、遠回りでよかった?何か急いで里に戻りたい理由とかある?」 「いいえ、ありません。でも、ゲンマさんはどうして今日はこのルートを選んだんですか?」 ゲンマの第一希望は、運さえ良ければ遠からず近からずで比較的安全なルートだった。 「んー、何となく、かな。なんとなくイルカが本調子じゃなさそうだから」 イルカは驚いた。 まさかそんな理由だとは思わなくて。 どうせ、上忍に属する者特有の気まぐれだろうと思っていたから。 気まぐれな上忍、という響きに胸が少し痛んだが、何もなかったように言った。 「すいません。ありがとうございます」 |