一日に一度の休憩を二度ほど取り、ようやく里の入口であるゲートが見えた。 道中は特に問題なく、怪我一つしなかった。 しかし、無事に里に戻ってきた事を共に噛み締められる相手はいない。 「お疲れ様でした」 「おう、お疲れ」 イルカはポーチにそっと触れ、何かを感じ取るように目を閉じた。 カカシと付き合っている時に、一度ぐらい任務に出ておけばよかった。 任務で磨り減った精神はやけに心細くて、一人でやり過ごす方法が思いつかない。 今はただ単純に一人になりたくなかった。 報告書の提出を口実にして、受付でも行って気を紛らわせようか。 「じゃぁ、俺、受付所へ行って報告書を提出してきます」 「え、報告書?!い、いいよ、いいよ!オレが出しとくから!」 なぜかイルカと同じようにポーチを押さえているゲンマが、突然焦ったように言葉を繋いだ。 ポーチを押さえていない方の手を、勢いよく左右に振っている。 「疲れてんだろ?オレが提出しとくから、イルカは家でゆっくり休めよ!」 これだけ必死になっているところを見ると、受付に行きたい理由があるのかもしれない。 家族が待っているとか。 恋人が待っているとか。 それに比べて、イルカが受付へ行きたいと思っている理由は何て幼稚なのだろう。 ゲンマだってきっと、見た目にも疲れている自分を気遣って言ってくれているのに。 「ご迷惑じゃないですか?」 「全っ然!安心して休んでいいぞ。それに、別件で受付に用があるんだ」 そこまで言われたら、さすがにゲンマの好意を無にする事は出来ない。 用事があるというなら尚更。 「では、申し訳ないんですが、報告書、宜しくお願いします」 「おう!ゆ、ゆっくり休めよ!」 疲れているのは本当なのだから、素直に休めばいい。 寂しいなどと言っていないで、大人しく家で休めばいい。 「はい。失礼します」 里に帰るまでずっと張り詰めていた気を若干緩め、空っぽの我が家へ足を向けた。 * * * * * 一歩ずつ確かめるように家路を進むと、一ヵ月前とほとんど変わらない我が家がようやく見えてきた。 何となく違和感を覚えたのは、周辺の植物が任務に出る前より青々と、鮮やかに見えたからだろうか。 階段を上がって2階へ行き、自室のドアの前で立ち止まった。 ドアノブに手を掛け、一ヶ月間も放置されていた部屋に入る心構えをする。 中はきっと、足跡が出来るぐらい埃が積もっている。 こんな時、切に思う。 もしイルカに時間を操るような高等忍術が使えたら、室内の時間を停止させて、塵や埃が溜らないようにしていくのに、と。 時術を会得するのは非常に難しいのに、そんな程度の活用方法しか浮かばないのは、里内で教師をしていた頃の名残りだろう。 人としては嬉しいが、忍としては少し恥ずかしい。 「はぁ…」 任務後の疲れた体で室内を掃除する手間を考えたら、随分と平和ぼけしたため息が漏れた。 腹をくくって中に入り、まずはポストに溜まった郵便物を取り出した。 何通か封書が入っていて、もしかしたらカカシから送られたものがあるかもしれない、なんていう馬鹿げた期待をした自分を嘲笑った。 実際は電気、ガス、水道の使用明細書とダイレクトメールだけ。 少し高鳴った心臓をやり過ごし、靴を脱いで部屋中の窓を開けていった。 流しの下に置いている雑巾と、フックに掛けていたほうきを取り、一ヶ月分の大掃除が始まった。 埃取りと掃き掃除を終えて、やっと床の拭き掃除に取り掛かかれるまでになった。 床を拭こうと腰を屈めたらポーチが邪魔になったので、きれいになったばかりのテーブルにそっと載せた。 雑巾を絞り、フローリングの床と向き合うために下を向いた。 すると突然、何とも言えない居た堪れない気持ちが込み上げて来た。 ぎゅっと真一文字に口を結び、ただ雑巾で床を拭く事だけに集中しようと思った。 そうやって拭いている最中に時々テーブルの端が視界に入ると、無意識に上に置いてあるポーチに目が行った。 はっとして、また床を拭く事に集中しようとする。 そんな事の繰り返しで、ようやく狭い部屋は生活が出来るまでに回復した。 疲れたので直に床に尻を着き、ぺたりと座り込んだ。 「雑巾、洗わなくちゃ…」 再び立ち上がろうとしたら、出来なかった。 その代わり、雑巾を掴んだ手の甲に、ぱたぱたと雫が落ちた。 もう、泣いてもいいだろうか。 感情に流されてしまってもいいだろうか。 この部屋は一ヶ月前と全然変わっていなくて、どこもかしこもカカシとの思い出が残像となって浮かび上がってくる。 「…うっ…うっ…、っく…」 ここの中でならテントと違って、誰にもはばかる事無く、嗚咽が漏れる事も気にしないでいい。 イルカは震える拳へ送っていた視線を、自分の心の趣くままに、テーブルの上にあるポーチへ移動した。 外を拒絶するように窓に背を向ける。 掃除のために開け放していたそこから、何の前触れもなく柔らかい風が入り込んだ。 風は、濡れたイルカの頬をさらりと通り過ぎて行く。 そして丁度その風に乗ってきたかのように、窓と並んで立っている木の枝に一人の男が現われた。 音も気配も無く現われた男は、そんなイルカの後ろ姿を見た瞬間、不自然に体を強張らせた。 |