イルカに酷い仕打ちをしておいて、未だに傲慢さが残っていた自分に心底嫌気が差した。 直接会って話がしたい? 久しぶりだから一緒に飲みに行くのも悪くない? どの面を下げて、そんな事が言える。 イルカに遊びだったと言った、あの面でか。 よくもまぁ、いけしゃあしゃあと。 そもそも、関係を断とうとしたのはイルカの方じゃないか。 それに対して碌に異論も唱えなかったくせに、別れた相手に付き纏うなんて。 逢いたいなんて言える立場じゃないのに、馬鹿みたいに浮かれていた。 「…何で…上手くいかないんだよ…」 受付所の廊下を歩きながら握った手に力を込めると、腕の筋から軋んだ音が聞こえた。 忌々しげに下唇を噛む。 ゲンマが言うには、イルカは相当疲れているらしい。 怪我とか病気とかは、していないだろうか。 休息や栄養は、ちゃんと取っているだろうか。 何かつらい思いは、していないだろうか。 イルカと別れてから、イルカに起こる悪い出来事は、全部カカシのせいであるような気がした。 「…っ…」 いつまでも慣れない胸の痛みが、また襲ってきた。 目を閉じて天を仰ぐと、泣きそうなイルカの顔が易々と蘇り、更に苦しさが増した。 過去の非礼を詫びる事は、もう出来ないのだろうか。 謝るために顔を合わせる事を、許してはくれないだろうか。 「…少し…だけ…」 微かな独り言は、自分の声とは思えないほど掠れていた。 そういえば、何度かイルカに声を褒められた事があった。 好きだとも言ってくれた。 でも、それに自分が何と返したか覚えていない。 たぶん、イルカが自分に夢中なのを再確認出来たとほくそ笑み、それがどうした、ぐらいしか思わなかったのだろう。 そんな馬鹿な事ばかりしているから、イルカに愛想を尽かされるのだ。 思考がどんどんマイナスに向かってしまう。 これではいけないと思って、気持ちを切り替えるためにぶんぶん音がするほど頭を振った。 後悔はいつでも出来るのだから、今しか出来無い事をやらないと。 自分の気持ちに正直になれば、したい事なんて一握りしか残らないのだ。 単純なだけに純度の高い思い。 イルカの姿を確かめたい。 渇望していた彼が、やっと手の届く距離に帰って来たのだから。 もう一度、最後に見た別れ際のイルカの顔を思い出した。 のどの奥の方からが漏れそうになる呻き声は噛み殺し、カカシは心を決めた。 * * * * * 随分と長い間、通らなかった道。 受付所からイルカの家までの道。 二人で並んで歩いた道。 途中の商店街で買い物をして帰った事もあった。 カカシは自分を奮起させるために、思い出の詰まったこの道をわざわざ選んでいた。 でも、反って感傷的になってしまい、全くの逆効果だった。 この道を通る時、自分がイルカを思い出すように、イルカもカカシの事を思い出したりするのだろうか。 そして、その事で、自分と同じように胸を痛めたりするのだろうか。 イルカが胸を痛めるぐらいなら、自分の事など思い出さないでほしいと思う。 商店街の醸すにぎやかな雰囲気は以前と変わらないのに、カカシを取り巻く空気だけがひたすらに重かった。 自分一人が浮いているようで、結局足早で通り過ぎた。 イルカの家は商店街を抜けて住宅街に入ると、すぐに到着する。 薄らいだ記憶の中から、部屋の間取りと周囲の様子を頭に浮かべ、窓際に大きな木があった事を思い出した。 あの木に葉がうっそうと茂っていた覚えはないが、この季節なら身を隠せるぐらいにはなっているだろう。 イルカの部屋へは外階段で二階に上がるが、その階段には目もくれず、あっさりと前を通り過ぎた。 裏側へ廻り込むと、思った通り葉が生い茂った大きな木が佇んでいた。 マスク越しに息を吸い、一瞬でイルカの部屋が覗ける位置まで跳んだ。 窓は開け放たれていた。 それに気付いたのとほぼ同時に、カカシの体が硬直した。 絵画のように、窓枠で縁取られたイルカの後ろ姿。 しかし、それが現実である事をを証明するように聞こえてくる嗚咽。 小刻みに震える肩は何を意味するのか。 カカシは動けないまま、その光景を凝視していた。 イルカが緩慢な動作でテーブルに手を伸ばし、その先にあるポーチを掴んだ。 ゆっくりと胸に運び、大切な宝物を扱うような丁寧さで抱き締めると、イルカの嗚咽がいや増した。 辛い、悲しい、と全身で訴えているようだった。 余りの痛ましさに、カカシまで涙が込み上げてきた。 そんな風に泣かないで。 「イルカ先生…」 堪らなくなって呼び掛けてしまうと、我慢できずにとうとう窓から入室した。 こちらの声は届いているはずなのに、イルカは一度びくりと大きく体を揺らしただけで何事も無かったかのように、また肩を震わせて泣き始めた。 無視されたのかと思った。 でも、大の男が泣いている姿を見られたというのに、何の反応もしないで泣き続けたりするものだろうか。 きっと聞こえなかっただけだ。 出来るだけ良い方に考える事で、弱気になりそうな自分を抑え込んだ。 たとえそうだったとしても、人の気配に気付かないほど泣いている原因は何。 カカシは直感で、イルカが大層大事そうに抱えているポーチに真実が隠されているような気がした。 泣くほどの事を宿す物など手放してしまえばいいのに。 何でもいいから、とにかく今の状況を改善すべく、以前よりも薄っぺらくなった気がする背中へ、緊張で震えそうになりながらも呼び掛けた。 「イルカ先生」 今度は気付いたようで、イルカは右へ左へと交互に首を巡らせ、最後にカカシの方へ振り向いた。 真っ赤な目をしたイルカと視線が絡む。 その頬には幾筋もの涙の跡。 イルカはしばらく夢を見ているような呆けた顔を晒していたが、突然はっと我に返り、手の甲でごしごしと涙を拭った。 ポーチを押さえる方の手に、ぐっと力が入ったのがわかった。 そのポーチが何だというのだ。 「どうして泣いてるんですか?…そこに何か入っているんですか?」 怯えた顔をしたイルカが警戒しながら後ずさったが、狭い室内では大した時間も掛からず壁にぶつかった。 イルカはポーチを両手で抱え直し、両膝を立ててうずくまった。 「嫌だ…」 膝に顔を埋めているせいでくぐもったイルカの声。 虐げられた少年のような姿は痛々しいと思うのに、泣き涸れた声には懐かしさすら感じた。 「嫌だっ…嫌だっ…!」 急に荒がった声に戸惑う。 すると突然、ポーチを持って立ち上がったイルカが玄関の方へ走り出した。 頭とは関係なく、勝手に体か動いた。 イルカに手が届くと、これ以上逃げられないように思いきり引き寄せた。 そのはずみでポーチが床に落ち、青かったイルカの顔色が土気色へと変化した。 「…!」 イルカは崩れるようにして、その場に尻餅を着いた。 両手で顔を覆い、泣きながら、ごめんなさい、許して下さい、と言った。 それを言わなければいけないのは、こちらの方なのに。 「謝らないで、下さい」 下を向いているイルカの髪は、任務から帰ってきて間も無いせいか少しほつれていた。 カカシはしゃがんで、涙で濡れた顔に貼り付いた髪に手を伸ばし、怖がらせないように触れて耳に掛けてやった。 子供をあやすように頭を撫で、イルカが落ち着きを取り戻すまでじっくり待った。 頃合を見計らってポーチを拾い、中身を見た。 少量の火薬と手裏剣。 それと、薄汚れた一枚の紙切れ。 「これ…」 近くから、ぱた、ぱた、と床に水滴が落ちる音が聞こえた。 |