紙には見覚えがあった。 「え、どうして、イルカ先生がこれを?」 イルカは何も答えない。 答えの代わりに、床とぶつかった雫がぱたぱたと音を立てる。 カカシがゲンマに託した手紙はイルカには届かなかったはず。 だってさっき本人がそう言ってた。 「どうして、あなたがこれを持っているんですか?ゲンマは渡せなかったって言ってたのに」 「…拾いました」 心ここに在らずといった面持ちのイルカがゆらりと正面を向き、上辺だけの記憶を語るように言葉を発した。 頬には真新しい涙の跡を無数に残し、遠くを見つめる瞳はどこか薄暗い。 まるで精神を守る防衛本能がイルカの感情を押し殺しているようだ。 「俺は愚かだから、この手紙に込められたあなたの気持ちを横領してやろうと思ったんです」 あはは、と乾いた笑い声を上げた。 手紙に込められた気持ちなんて、どうしてイルカが横領する必要があるのだろう。 「誰に送ったものかは知りませんが、残念でしたね。俺なんかに拾われたばっかりに」 「え…」 イルカと話が噛み合わない。 こんな時に限って上手く働かない頭を猛回転させて、なんとか状況をまとめようとした。 あの手紙はイルカ以外に送られたものだと思っていて、たぶん彼はそれに大きく傷付いていて。 荒んだ口調が、反ってそれを証明しているよう。 本当の事が見えたら、もう辛抱できず力一杯イルカを抱き締めた。 どうしてイルカがそんな事をしたかなんて、聞かなくたってわかる。 自分のした事を振り返れば弁解の仕様はないが、不謹慎にも嬉しさが込み上げた。 イルカの肩口に顔を埋め、有りっ丈の声を絞って心から叫んだ。 「あなただっ。宛先はあなたっ」 「ふざけた事を…」 「ふざけてない!オレはイルカ先生にあの手紙を送ったんだ!」 イルカはそれっきり身動きをしなくなった。 でも抱き締める腕の力は決して緩めない。 二人の間には色々あったのだから、考える時間だって必要だろう。 その間、カカシもイルカに倣って無言を貫いた。 そして長いこと押し黙っていたイルカが、小刻みに体を震わせ始めた。 弱々しい手付きでカカシの胸を押し、お互いの顔が見えるぐらいまで体を離す。 間近で見たイルカの黒い瞳は不安気に揺れていたが、先程と比べれば僅かに輝きを取り戻していた。 「だって…」 まだ信じきれないようで、カカシの顔を覗き込んで真偽を確かめようとしている。 そのひたむきな視線に愛しさを感じた。 「…証拠になるかわからないけど、これを見て下さい」 そう言って、カカシはベストのポケットを探り、一枚の便箋を取り出した。 四つ折りに畳んだ紙には、一度ぐしゃぐしゃに丸められた跡が残っている。 差し出すと、イルカは素直に受け取った。 食い入るように、文字を目で追う。 『イルカ先生に逢いたいです。戻れそうな日があったら教えてもらえませんか。時間があれば食事…』 中途半端なところで切れた文章。 イルカはたった一行のそれを、何度も何度も繰り返し読んでいた。 ふらっと顔を上げたイルカの目にはだいぶ生気が戻っていて、カカシの中で蟠っていたものが溶けた気がした。 「書いてる途中でいきなり過ぎたなと思って止めたら、続きが全然書けなくなって」 「どうしてこんなもの…」 「聞いてもらえますか…?」 自嘲してから、事の全てをイルカに語り始めた。 真っ先に口にしたのは、別れた時に言った『遊びだった』という言葉の謝罪。 あとはもう箍が外れたように、一方的に捲くし立てた。 心配していた事だとか、火影のところに駆け込んだ事だとか、ゲンマに仲介役を頼んだ事だとか。 イルカは少し複雑な顔をして、静かに話を聞いていた。 その顔を見たら、何よりも言いたかった事なのにまだ言っていなかった事が頭をよぎった。 でもいざ言おうとして息を吸ったら、急に尋常でない緊張感に襲われた。 こんなにも深い思いを抱いた相手に本心を曝けるという事は、なんて勇気のいる事なんだろう。 「あの、それで、オレが一番言いたかった事が」 居住まいを正し、イルカと真正面で向かい合う。 それでも言い淀んでしまって口をパクパクしていたら、唇が乾いてしまって何度も舐めた。 そして。 「イルカ先生が、好きって事なんです」 なんて陳腐で青臭い言い回しなんだと、自分でも思った。 でも頭の中はその言葉が充満していて、他には何も思い浮かばなかった。 更に、一度言ってしまうと吹っ切れたようで、好きだ、好きだ、と馬鹿みたいに繰り返した。 「気持ちばかりが先走ってしまって、頭が全然追い着きません」 今の自分を表現すると、多分その言葉が一番適しているだろう。 二通目の手紙を書こうとした時もそうだった。 何回書こうとしても、結局は言葉に詰まる。 書いている途中で、紙一枚、目一杯を好きという文字で埋め尽くしたくなるような感覚に陥るのだ。 「朝起きる時、家を出る時、任務が終わった時、食事をする時、ベットに入る時。色んな時にイルカ先生の顔が横切るんです」 好きだと告げてから何も言おうとしないイルカが気掛かりで、返事を先延ばしするように話し続けた。 「けど、その時のあなたは、いつも泣きそうな顔をしているんです。…オレのせいですけど…。もうイルカ先生の笑顔は思い出せなくなりました…」 それは本当の事だった。 一緒に居る時は当たり前に見ていたものが、見えなくなった途端に脳裏からも姿を消していた。 イルカの笑顔が好ましかったという記憶はあるのに、頭に浮かぶのは泣きそうな顔だけ。 日常になっていた二人の時間を、贅沢にも無駄遣いしていたのだと気付いて、イルカに対して申し訳なさが募った。 「…俺の笑顔なんて、思い出さなくて良いです」 それまで黙っていたイルカから出た、突然の言葉。 言われた意味を理解した瞬間、息が詰った。 前線で拾った手紙を持ち帰ったのは、イルカがまだカカシに思いを残してくれていたからじゃないのか。 さっき感じたその嬉しさは、自分勝手な思い違いだったという事なのか。 「もう、思い出さなくて良いんです」 念を押すように繰り返したイルカの目には、強い意思が孕んでいた。 一ヶ月前に別れを告げた時と同じように意志の強い瞳。 それがイルカの答えなのか。 儚い希望にとどめを刺され、カカシの目の前は真っ暗になった。 |