翌日の土曜日は、昼前から受付業務が入っていた。 出勤するまで、あと1時間を切っている。 それなのに、カカシはまだ帰って来ない。 カカシはイルカがここにいる事を知っていて、帰りたくても帰って来られないのだろうか。 もしそうなら、待ち続ける事自体がカカシの負担になってしまう。 急に身動きが取れなくなった。 追い縋ったら振り払われて、待つ事も許されていないのかもしれない。 心細さで、また涙が込み上げてきた。 ここからは離れた方が良い。 それが、一晩中考えた末に導き出した精一杯の答えだった。 * * * * * 郵便受けに置き手紙をしてこようかとも思ったけど、紙切れ一枚で許しを乞うなんて虫の良い話だと気付いて思いとどまった。 直接会って、イルカの言葉で伝えないと意味がない。 一端家に帰り、簡単にシャワーを浴びてから出勤した。 平日よりも訪問者の少ない受付。 にぎわっている時間帯を知っているだけに、今日はやけに物悲しい。 気を紛らわせるために、隣接するアカデミーの教員室へ書類を取りに行こうと席を立った。 土曜日の受付窓口は2つしか開いていないけど、短い時間なら、片方の窓口が閉まっていても大丈夫だ。 休日の通路は人通りがなく、誰とも会わずに教員室に着いた。 机の引き出しから多めに書類を掴み、受付へ戻る。 廊下を歩いていると、通り道の喫煙所から人の声がした。 行きは誰もいなかったので、イルカがここに戻って来る間にやって来たのだろう。 何となく目を向けると、アスマがソファーに座って煙草をふかしていた。 話し相手はイルカに背を向ける格好でアスマの斜め前に立ち、アスマを見下ろすようにして高い位置から話し掛けている。 どこにいても目立つ銀髪と、高身長の猫背はカカシのもの。 彼を識別するには後ろ姿だけで充分だ。 さっと柱の影に隠れ、心の準備を整える。 緊張から、持っていた書類を無意識の内に両手で胸に抱き込んでいた。 「カカ…」 呼び掛けながら喫煙所の方へ一歩踏み出す。 しかし、イルカが名前を呼ぼうとした本人は、気配すら残さずにその場から消え去っていた。 ぎゅうっと眉間に皺が寄る。 目に薄っすらと涙の膜まで張った。 この程度の距離なら、カカシは絶対にイルカの存在を感知している。 それなのにカカシは、わざとイルカを避けてどこかへ移動したのだ。 イルカと顔を合わせるのが嫌だったのか、イルカが身を隠した事に苛立ったのか。 どちらにしても、状況が悪化している事に変わりはない。 あの時躊躇わずにカカシに声を掛けていたら。 後悔が次から次に湧いてきて、それが悲しみとなってイルカの中に積み重なっていく。 カカシとの関係は、もう修復出来ない域にまで達してしまったのだろうか。 カカシと正面から向き合って謝る機会が欲しいだけなのに、やる事なす事が全部裏目に出て、好転の兆しが一つも見えて来ない。 言いようのない危機感が胸に押し寄せた。 今度こそ駄目なのかもしれない。 足元がふらついて倒れそうになるのを必死に耐え、震える唇を噛み締めながら受付へ戻った。 顔が隠れるように俯いて歩く。 イルカが受付に入ろうとすると、出入り口で2人組の忍と入れ違いになった。 顔を上げたくなくて、相手の顔を見ずに首だけを動かし、会釈まがいの挨拶をする。 「ねえ、アスマ。今日は付き合ってくれるんでしょ」 思いがけないほどの至近距離からカカシの声がして、反射的に振り返った。 「カカシ先生っ」 縋り付くようなイルカの声を聞いても、カカシは肩越しに一瞥しただけで向き直ってはくれない。 「ああ、どーも」 言いながら軽く片手を挙げ、犬を追い払うような仕草で手首から上をひらひらと振った。 2人の背中が遠ざかり、イルカ一人が取り残される。 「おいカカシ、良いのか?」 イルカから大分離れてから問い掛けたアスマに、カカシがどう答えたのかはわからない。 疑う余地のないカカシの無関心さ。 言葉以上に決定的なその態度に、カカシとの関係の終末を悟った。 * * * * * カカシに置いて行かれてからのイルカは、全くの役立たずだった。 報告書の確認も満足に出来ず、取りに行った書類も手付かずのまま。 もう一人の窓口担当者に早退しろと言われて、抵抗する気も起きなかった。 帰り道はいつもの景色が黒ずみ、惰性で何とか家に辿り着いた。 ドアを閉め、一人の空間を確保した途端、玄関に崩れ落ちる。 安アパートの防音力を考慮する余裕はなかった。 「かかっ…うっ、うっく…」 イルカだって、恋人になれたからと言って一生カカシと添い遂げられるとは思っていなかった。 近い将来、必ずカカシに相応しい女性が現れて幸せな家庭を築く。 そんな事は、カカシを好きになった時から覚悟していた。 だけど、その日が来る前にカカシとの関係を壊したのは、他でもないイルカ自身だ。 遅かれ早かれだとわかっていても、可能な限り先に延ばそうと頑張っていたのに。 昔からそうだ。 本当に大事なものは、何をしたってイルカの手元から離れていく。 守り切れない不甲斐なさを身をもって知っているのに、こうして懲りずに同じ事を繰り返す。 今回の原因を作ったイルカに、カカシを引き止める力があるとは思えない。 何度拭っても落ちてくる涙を、飽きずに何度も何度も拭い続けた。 仲直り出来ないと決まっているのなら、早くカカシに結婚相手を見つけて欲しい。 そうでないと、中途半端な期待を持って、いつまでもカカシの事を引きずってしまう。 カカシに女性を紹介してほしいと頼まれたら素直に応じるから。 誰かにカカシを紹介してほしいと頼まれれば、喜んで仲介するから。 自分のためなのだと思って痛みに耐え、気力を振り絞る。 「うっ、…っ…」 可能性の話なのに、考えただけで涙の勢いが増して嗚咽が込み上げた。 でも、カカシはもてるから、きっと杞憂に終わる。 イルカが仲を取り持つ前に、カカシが自分で見つけた恋人と上手くいく筈だ。 カカシの新しい恋人は、イルカとは正反対のとびっきりの美人に違いない。 凡庸な男にうんざりして、二度とイルカに近付く事はなくなる。 それで良いのだ。 遠い所から好きな人の幸せを願う自由は、まだイルカに残されている。 それを糧に、毎日をひたむきに生きて行けば良い。 そしていずれ、時間が傷を癒し、独りで歩いて行けるようになる。 カカシの優しさも、三代目のような慈愛も、ナルトへの逃避も、何もかもを失っていても。 倒れ込んだ板張りの床は冷たくて、容赦なく体温が奪われていく。 複雑な気持ちだった。 冷たい床と対照的なカカシのぬくもりが蘇り、硬い床でさえ愛しく思えてくる。 イルカの口元に笑みが戻った。 しかしその一瞬後にやって来た虚しさの波に押し流されて、顔が強張り、唇が震え出す。 カカシの中からイルカと過ごした時間が消される事が怖い。 でも、諦めを付けなきゃいけない時が来た。 今日の涙は尽きそうになかった。 |