急に入った任務は、決して危険度の高いものではなかった。

ただ、出立前に一目会って一声掛けておきたくて、カカシはイルカの家に向かっていた。

常識的に見れば迷惑と言われる時間帯。

それを承知で顔を出すのは、カカシの自惚れではなく、事実イルカが喜んでくれるから。

イルカの家に着くと、イルカもどこかへ向かう途中だったようで、通路で鉢合わせになった。

言葉だけで済ませようとした挨拶は、儚げなイルカによって変えざるを得なくなる。

自然に腕が伸び、イルカを抱き寄せていた。

イルカのぬくもりは、任務という現実を、カカシから容易く奪い取る。

流されてはいけない、と思った。

「ごめんね…。じゃあ、行ってきます」

名残惜しさを断ち切るように、ぱっと腕を離した。

踵を返してイルカに背を向ける。

すると、歩き出そうとするカカシを行かせまいとして、イルカが後ろから縋り付いてきた。

こんなに積極的なイルカを前にして、任務さえなければ、とどれほど強く思った事か。

その場で押し倒しそうになる情欲を、奥歯を噛んでこらえる。

もう行かないといけないから、イルカを慰めている時間がない。

仕方なしに、イルカの気持ちを試すような酷い言葉を放った。

普段のカカシからは考えられないほど強気な発言。

これは賭けだった。

イルカに呆れられて愛想を尽かされるか、そんな言葉を言わなければならないほどカカシが困っている事が伝わるか。

カカシの思いが通じたのか、結果は後者だった。

瞬時にイルカの拘束が解かれる。

しかし、ほっとしていたのも束の間、盗み見たイルカの様子に何か違和感を覚えた。

途方に暮れたような心細そうな表情に、言いたい事を全て飲み込んだような悲しげな一言。

その反応は、カカシが予想していたもののどれとも異なっていた。

即座に、言葉の選択を誤った事に気が付いた。

でも、この程度の事なら、任務を終えて帰って来てから謝っても、大した波風は立たないだろう。

イルカには悪いと思いつつ、これ以上の長居を避けるために、カカシはあえて言葉を省いたままで任務に就いてしまった。

それが間違いだった。

目的地に向かいながらも、別れ際のイルカの反応が片時も頭から離れない。

それどころか、時間が過ぎれば過ぎるほど、罪悪感が重く圧し掛かってくる。

妙な胸騒ぎを早く払拭したい一心で、現地での作業を極力短時間で終わらせた。

報告なんて後回しにして、真っ先にイルカの家へ向かう。

すると、途中の住宅街で、イルカによく似た気配を感じ取った。

不審に思いながらも、半信半疑でその気配を追い掛ける。

そうして行き着いたのは、カカシには見覚えのない3階建てのアパートだった。

これだけ近付けば、先程の気配がイルカ本人のものなのかどうか、カカシにだって判別出来る。

イルカはこんな所で何をしているのだろう。

しばらくアパートの玄関が見える位置で待ってみたが、出て来る気配はない。

家主のわからないアパートに押し入る訳にもいかないので、カカシは一端、任務の報告に受付へ向かった。

事務的に報告書を提出し、急いであのアパートへ舞い戻る。

ほんの数分しか経っていないけれど、イルカがまだ室内にいる事に少なからず気を落とした。

イルカはいつからあの部屋にいたのだろう。

もしカカシが出立してすぐだったら、既に1、2時間は経っている。

それだけの時間あれば、キスは出来るし、その先の事だって可能だ。

イルカが恋人を裏切るような尻軽でない事はカカシが一番良く知っているけど、出掛ける間際の一悶着がカカシの気持ちを重くさせていた。

あの時にイルカの反応を軽んじていなければと思うとやり切れない。

任務の出立を遅らせてでも、イルカにしっかり説明しておくべきだった。

今更ながらに間違った判断を下した自分が恨めしい。

それに、恋人が仕事で離れている時の寂しさを埋めるために、一時的に割り切った関係を持つという話はよく聞く。

上忍をやったり暗部をやったりしていると、当たり前のように耳に届いた。

イルカがそういう事をする人だとは思わない。

だけど、そのふしだらな行為が、実際にカカシの身近で行われていた事は紛れもない事実だ。

カカシだって頼まれて関係を持った事があるし、イルカがそんな気持ちにならないとは言い切れない。

考えが悪い方へ悪い方へと進んでいく。

愛しい人を待つ事に馴れていないから、こんな事ばかり考えてしまうのだろうか。

それともこれは、過去のカカシの不誠実な行いへの制裁なのか。

自己嫌悪で沈みそうになる気持ちを抑え、自身の気配を消す事に集中した。

そうでもしないと、不安でじっとしていられない。

必死になってあの部屋を見つめていると、何の前触れもなく室内の気配が動き出し、とうとう中からイルカが出て来た。

室内の照明を背にした家主の顔は識別出来ないが、男である事は確かだ。

イルカが俯きがちに目元を拭いながら、何度も頭を下げる。

やがてドアが閉まり、それを確認してからイルカが歩き出した。

イルカの足取りが幾分軽いように見える。

あの部屋で、一体何が起きたというのだ。

目の前が真っ暗になった。

自業自得という言葉が、カカシの頭の中で大音量でこだまする。

それとほぼ同時に、強烈な悲しみと悔しさがマグマのように込み上げてきた。

イルカとの距離が縮まるに連れ、より一層感情が昂ぶっていく。

そしてそれは、イルカがカカシの前を通過しようとする時、言葉となって溢れ出した。

「急いで帰ってみれば…。他の男の所でお楽しみですか」

「カカシ先生っ…」

イルカは驚いているようにも、焦っているようにも見えた。

カカシと遭遇したら不都合だから動揺するのだ。

それを理解した途端、悔しさは消え去り、悲しみだけがカカシの感情を埋め尽くした。

「オレは御役御免みたいなんで帰ります」

「違うんですっ…!カカシ先生っ!」

イルカの呼び掛けを無視して、一瞬にして姿をくらませた。

カカシ自身がまだ現実を受け入れられないのに、その状態で言い訳を聞くのはつらい。

とにかく今は一人になりたかった。



* * * * *



人恋しくなったカカシの足は、昔馴染みの歓楽街へと向かっていた。

深夜にこそ本領を発揮する地域なだけあって、この時間でもまだまだ充分ににぎわいを見せている。

しかし、街の雰囲気とは対照的に、カカシの思考は確実に平静を取り戻し始めていた。

静かな空間は無意識に任務時のような緊張感を思い出すから、騒音に包まれた雑踏の中にいる方が落ち着く。

情けなくて笑った。

自分だけの気分転換の方法は心得ていても、大切な人を引き留める方法は何一つ持ち合わせていない。

他人からは羨まれるカカシの恋愛経験が、いかに中身のないものだったのか、これではっきりした。

軽薄さを誇張する噂は人一倍に流されて、肝心な時にはこうしてカカシの足を引っ張ってくる。

そもそも、イルカと恋人関係に至るまでの最大の障壁になったのが、その噂だ。

その頃の苦悩に比べたら、まだ今回のいざこざの方が解決しやすいのかもしれない。

急に、ぱーっと目の前が明るくなった。

俯きがちだった歩行姿勢までが、しゃんと立ち直る。

イルカは生涯の伴侶として、一生添い遂げると決めた相手だ。

そう易々と手放す事なんて出来る訳がない。

みっともなくもがいてでも、しがみ付いてやる。

カカシは、脇目も振らずにイルカの家へ向かった。



* * * * *



今まで順調に動いていた歯車が、ほんの些細な原因で、一気に噛み合わなくなってしまった気がする。

カカシがイルカの家に着いてから、既に数時間が経過した。

それでもまだ、イルカは帰って来ない。

さっきまでの意気込みが嘘だったかのように、カカシはすっかり肩を落としていた。

もう空は明るくなり始めている。

本格的に朝になってしまったら、ここを離れなければならないのに。

どうしても外せない任務の打ち合わせがあるのだ。

カカシはひたすら祈った。

イルカが一秒でも早く家に帰って来る事を。

だって、今日の外泊は、ただの外泊では済まない。

イルカが帰って来ない事が、カカシを拒絶している何よりの証拠になってしまう。

だから待った。

打ち合わせの時間を過ぎても、イルカを信じて待ち続けた。

しかし、無常にも制限時間はやって来る。

打ち合わせ相手のアスマが、呆れ顔をしてカカシの目の前に姿を現した。

「喧嘩だか何だか知らねぇが、仕事放棄はすんな」

「…わかってるよっ」

「もう一人はアカデミーで待たせてる」

隠れている口元がへの字に曲がる。

ここを動きたくない。

でも、そんなカカシのわがままが通用する筈がなかった。











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2005.12.30