安全が確実に保障された領域。 以前からアカデミーは任務の打ち合わせでも頻繁に利用されていた。 特に休日ともなると、来校者はほとんどいない。 普段は子ども達の声で騒がしい校内も、人けがなくなると途端に神聖な空間へと変貌する。 長時間の打ち合わせを終えたカカシは、アスマを伴い、喫煙所へ向かって静かな廊下を歩いていた。 アカデミーの喫煙所は、生徒が行き交う動線とは少し離れた場所に設けてある。 教職員でさえ、意識しないと人がいる事に気付かないような不便な場所に。 壁に沿って作り付けられた長椅子の中央、灰皿の目の前にアスマは腰掛けた。 「任務前に揉め事起こすんじゃねぇよ」 早速煙草に火を点けたアスマが、灰皿を挟んで正面に立つカカシの腹部へ勢い良く煙を吹き付けた。 イルカに身体に悪いからと言われて以来、カカシは煙草を一度も吸っていない。 カカシの健康を気遣ってくれた事が嬉しくて、今でもそれを忠実に守り続けている。 「…このまま帰って来なかったらどうしよう…。オレ捨てられるのかな…」 語尾が溜め息と混ざって掠れた。 覇気のない物言いが余計に惨めに聞こえる。 「…っ!」 「噂をすれば、だな」 その時、突然思いも寄らない気配がカカシ達の方へ近付いて来た。 全身に緊張が走る。 イルカがアカデミーに来ても不思議ではないけど、今日が出勤日だとは露ほどにも思わなかった。 徐々に距離が縮まり、カカシの背中に冷や汗が伝う。 そして最接近した瞬間、カカシはぎゅうっと目を瞑った。 しかし何事も起こらずに、イルカの気配が遠ざかって行く。 素通りされた。 カカシに気付いてわざと無視したのか、単純に気付かなかっただけなのか。 どちらにしてもつらかった。 「…アスマ。…オレ…もうダメかも…」 「お前も報われねぇなぁ」 肩を落として項垂れていると、再びイルカの気配が戻って来た。 「待ってねぇで自分から声掛ければ良いじゃねぇか」 確かにアスマの言う通りだ。 でも、どうしてもイルカの方から気付いて欲しかった。 カカシがイルカの気配だけは特別敏感に感じ取っているように。 更にイルカとの距離が縮まり、先程は何も起こらなかった最接近地点が近付く。 また見つけてくれないのか、と諦め掛けた矢先。 イルカがカカシの存在に気付いて、柱の影に隠れた。 「…行くか」 アスマの憐れみに満ち溢れた言葉に、カカシは素直に従った。 イルカの行動は、会いたくない人に会ってしまった時の常套手段。 早く動き出さないと二度と立ち上がれなくなりそうで、逃げるようにしてその場を後にした。 * * * * * 本当はその足で居酒屋にでも駆け込みたい気分だった。 しかし、打ち合わせ内容の報告を怠っていた報いが、こんな所でやって来た。 受付所の机に向かい、アスマと2人で手分けして打ち合わせの議事録を作る。 まだ外は明るいが、アスマにはこの後ヤケ酒に付き合ってもらう約束を取り付けた。 今日の酒は、たぶん身体に悪い。 しかも明日の任務にまで支障を来たす恐れがある。 だけど飲まないと、とてもじゃないが任務なんてやっていられない。 仕上がった書類を放り投げるように提出し、とっとと受付所の出口へ向かった。 度重なる出来事に、ついつい深い溜め息が零れる。 これ以上余計な溜め息を吐かないよう、浅めの呼吸で空気を吸い込むと、その中に覚えのある気配が混ざっていた。 非常に近い場所にイルカがいる。 飲みに行く事しか頭になかったせいで、イルカに気付くのが遅れた。 カカシが戸惑っている間も、イルカは着実にこちらへ向かって来る。 心臓がばくばくとうるさい。 半分投げやりになりながら、カカシは一つしかない出口を堂々と通り抜けて行った。 俯き加減のイルカと至近距離ですれ違う。 それでもイルカは顔を上げる事なく、申し訳程度の会釈でカカシの横を通り過ぎた。 やっぱりイルカには気付いてもらえない。 肩が触れ合ってもおかしくない距離だったのに。 これはもう、カカシに対するイルカの思いが薄れているのだと認めるしかないだろう。 「ねえ、アスマ。今日は付き合ってくれるんでしょ」 声を出すのはカカシにとって最後の手段だった。 「カカシ先生っ」 ようやくカカシに気付いたイルカの表情には疲れの色が濃く、昨夜の男との情事の激しさがうかがえた。 それに加えて、イルカの慌てふためいた声音。 直感で、別れ話が始まりそうな空気を感じ取った。 「ああ、どーも」 僅かでもイルカとの別れを先延ばしにしようと、軽く手を振り、わざと素っ気ない声を出した。 不自然にならない程度の早足で、徐々にイルカとの間隔を広げていく。 「おいカカシ、良いのか?」 アスマの問いには、建物を出てから答えを返した。 「…もうちょっと時間が欲しいんだよ」 イルカとの距離が物理的に離れるまでは答えられなかったのだ。 カカシが虚勢を張っている事を見破られないように。 |