プライドが高くて気の強い女ほど厄介なものはない。
完全に無防備だったイルカを平手で殴り、崩れ落ちた所を更に叩こうとしている手を捕まえて、容赦なく捻った。
その途端ヒステリックに自己主張しはじめた女を、冷めた言葉で次々と制していく。
しかしカカシが何を言っても、女は全く聞く耳を持たなかった。
「これからは何度浮気したって全部許すから!やり直しましょう?カカシが忘れられないの!」
カカシの過去の不誠実を暴く内容に、はっとしてイルカを見遣る。
イルカは、両手で左頬を押さえて、ただ呆然としていた。
よく見ると、目の下に爪で引っ掻かれたような傷があり、薄っすらと出血までしていた。
瞬間に込み上げてきたものを抑えるために、きつく目を閉じて天を仰ぐ。
怒りではなかった。
これは、カカシのせいでイルカを傷付けてしまった事への悔しさや心苦しさだ。
「ねえ!今度こそバーカウンターやポーカーテーブルで私を抱いて!人が居たって拒まないから!」
イルカの耳を塞いでしまいたかった。
そして、もしあの頃に戻れるなら、女にそんな要求を出した自分を消してしまいたいと思った。

* * * * *

講義や実験、研修よりもイルカを追い掛けるのに夢中でいられたのは、サークルの夏旅行までだった。
前期の試験前、一気にそのつけが回ってきて、イルカに会える機会がめっきり減ってしまった。
もう冬休みだというのに、まだ清算しきれていない。
そんな中でクリスマスだけはイルカと過ごしたくて、さり気なくイブの予定を尋ねた。
『俺、出掛けます。…あれ?カカシさんも予定が入ってるんじゃないですか?』
アルバイトで忙しいイルカの事だから、そういう事だってあるだろうとは思っていた。
でも、カカシがイルカ以外とイブを過ごすのが当然と言わんばかりの口調には本当に参った。
余りの動揺で反論する事も出来ず、その時はあっさりと引き下がった。
今、それを物凄く後悔している。
どうしてあの時、イルカの予定を覆す努力をしなかったのか。
その思いが日増しに強くなり、とうとう3日後の夜には我慢が出来なくなった。
イルカのケータイ番号を確認して、発信ボタンを押す。
感情をぶつけたら駄目だから、出来るだけ落ち着いて話そう。
電話はすぐに繋がった。
『この電話はお客様のご都合によりお繋ぎする事が出来ません』
心臓が、どくっ、と大きく脈打った。
脈拍は次第に収まっていくのに、それと反比例して額に冷や汗が浮いてくる。
一瞬、イルカに着信拒否をされたのかと思った。
あのアナウンスが料金未払いの時に使われるという事は知っている。
それでもびっくりしたのだ。
住所ぐらい、イルカにきちんと確認しておけばよかった。
ケータイがないと、恋人の声も聞けない。
急にイルカが心配になってきた。
料金を払い忘れているだけならいいが、何かの理由で払えない状態になっているとしたら。
病気が悪化して家で倒れている、とか。
最後に交わした会話があんなだったから、思考がどんどん暗い方へと向かっていく。
カカシと連絡を取らなくて済むように、わざとケータイ料金を払っていない、とか。
このまま冬休みが終わるまで音信不通を続け、カカシとの関係を自然消滅させようとしているのではないか、とか。
居ても立ってもいられなくなり、イルカの知人に片っ端から電話をしてイルカの住所を聞いて回ったが、繋がらない人も含めて全滅だった。
他にイルカの住所を知っている人はいないかと考えていると、一人だけ思い当たる人物が浮かび上がった。
そいつの連絡先は知らないが、そいつの居場所なら知っている。
最低限必要なものだけを取って、慌てて家を飛び出した。


カカシがやって来たのは、以前1ヶ月だけアルバイトをしていた店だった。
クリスマスシーズンで混雑している店内を、慣れた調子で進んで行く。
「わー!はたけさんだー!」
「久しぶりに見たー!やっぱりカッコいい!」
カカシの登場に、店内が一層騒がしくなる。
こんな面倒な事になるのなら、店関係のアドレスを削除せずに残しておくべきだった。
部外者の声には一切耳を傾けず、イルカを家まで送っていた先輩店員の元へ、最短距離を歩く。
カウンターの内側で、入口に一番近い場所に目的の男はいた。
奥の方にはテンゾウの姿も見える。
仕事中だから責められないが、テンゾウも連絡がつかなかった内の一人だ。
「カカシじゃないか!久しぶりだな!」
馴れ馴れしく声を掛けてきた先輩店員に軽く会釈を返す。
最初からカカシはこの男が嫌いだった。
この男は、ただイルカと帰る方向が同じというだけで、イルカと体を密着させてイルカを家まで送る事が出来たのだ。
「どーも。ちょっと聞きたい事が…」
「やーん!カカシくーん!」
斜め後ろから、カカシよりも逞しい腕でがっちりと二の腕を掴まれた。
そこに頬擦りされ、悲鳴を上げそうになる。
「急に辞めちゃうんだもん!寂しかったわー」
全身に鳥肌が立ち、顔が引き攣る。
見た目は完全に男でも心は女、という属性の人だ。
たった1ヶ月しかいなかった店なのに、この客には早々から目を付けられていた。
冗談めかしてベッドに誘われた事もあって、カカシにとっては迷惑この上ない存在だ。
「もう離さないわよー!お持ち帰りさせてー!」
既に客と従業員という関係ではないので、遠慮なく拒絶できる。
思い切り腕を払いのけ、冷淡な口調で言い放った。
「このオレが男なんて相手にする訳ないだろ」
カカシの本気を察したようで、肩を落として元の席へ戻って行った。
席に着くと、野太い声でわざとらしい泣き声が聞こえてきた。
気分を切り替えるために一息吐き、改めて先輩店員に向き直る。
「相変わらずモテモテだねぇ」
「…そんな事より、うみの君の家、教えてくれません?」
「なんだよ。そんなの本人に聞けよ」
先輩店員が、店の奥を指差した。
そこにはテンゾウがいるだけだ。
「本人に聞けないから、ここに来たんです」
「だ、か、ら。ヤマトと話してるだろ、イルカ」
そう言われて目を凝らす。
縦に長いカウンターなので、席が埋まると奥の客は隠れて見えない。
自分の目で確かめるために狭い通路を奥へと進んで行く。
いくつかの背中を通り越し、一番奥の席にその姿を見つけた。
「じゃあ俺、そろそろ帰りますね」
イルカがテンゾウに声を掛けて立ち上がった。
ちらりとカカシを一瞥しただけで、カカシを無視して出入り口の方へと向かってしまう。
何が何だか解らず、イルカの背中とテンゾウの顔を交互に振り返る。
「先輩。さっきのここまで聞こえてましたよ。男なんて相手にしない、ってヤツ」
驚いて仰け反りそうになるのを、顎を引いて堪える。
すぐにイルカの後を追い、店を出る直前に追い着いた。
「うみの君っ、ちょっと話しませんかっ」
そのまま店を出て行こうとするイルカを更に追う。
道路からは死角になっている入口で、イルカの服に手が届いた。
咄嗟に握ると、イルカは素直に足を止めた。
ゆっくり振り返ってカカシの顔を見上げたと思ったら、すぐに逃げようとする。
「近くに車停めてあるからっ、その中でっ」
肩を落とし、俯き加減のままで、イルカが小さく頷いてくれた。






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2009.01.05