焦った。 イルカ本人から、イルカの事を嫌いなのかと尋ねられて。 焦った。 コテツとイルカがマンションの一室に消えて行って。 焦った。 タクシーの中で泣き出したイルカを見て。 特にイルカの涙を見た時には、心臓が止まるかと思った。 イルカを悲しませたい訳じゃないのに、カカシの意に反して色々な事が空回りしていく。 どうしても一度きちんと話をしたくて、渋るイルカに何とか部屋まで来てもらった。 温かい緑茶を用意して一息吐き、さっそく本題に入る。 質問の意図を測りかねた様子のイルカに、躊躇いながらもカカシが最も恐れていた質問を投げ掛けた。 「…マンションで2時間も何してたの…?」 とてもじゃないが、顔を上げてなんていられなかった。 「授業に…参加させてもらったんです」 「…授業って?」 コテツとの関係を示す隠語ではないかと勘繰って、更に具体的な内容を尋ねた。 見た目は純情そうでも実際はそうでないという事が、世の中にはたくさんある。 イルカだって例外ではない。 何を言われても耐えられるように、奥歯を噛んで身を固くした。 「小学生の算数と理科です」 後ろ暗い所は何もないと言わんばかりの堂々とした口調に、恐る恐る顔を上げる。 落ち着き払ったイルカの顔を見て、それはもう深くて長い溜め息を吐き出した。 全身から力が抜ける。 安心した事で、また泣きそうになった。 イルカを好きになってから、どうも涙腺が弱くなっている。 不自然なほど前屈みになって、少しずつ涙を押し込める。 カカシが悪戦苦闘している隣で、急にイルカが帰らせてくれと言い出した。 引き止めるために知恵を絞って言葉を繋ぐ。 しかし、返ってきた言葉の余りの素っ気なさに胸が引き攣った。 さすがに挫けそうになったが、それでも何とか持ちこたえてイルカに向き直る。 「…あなたと…もう少し…その、…仲良く…なりたいんです…」 自分の内側から溢れてくるものを拾って、辿々しく言葉に変換していった。 言い切ってから言葉の稚拙さに後悔する。 でも、それがどうやら良い方向に働いたようで、イルカの表情が目に見えて好転した。 合格発表の日にカカシを釘付けにした、あの笑顔。 それを見た瞬間、つらい事も苦しい事も全てが報われたと思った。 切なさで胸が張り裂けそうになり、ぎゅうっと胸元を掴む。 あの日以来。 「…初めて見た…。笑った顔…」 ずっと求めてきたのは、この笑顔だった。 何度だって恋に落ちる。 夢心地を漂っていると、聞き馴れたインターホンが鳴って、一気に我に返った。 モニターには、留学先で知り合った後輩が死にそうな顔で映っている。 あまりにも酷い顔だったので、同情心からロビーの開錠ボタンを押した。 しばらくして玄関の呼び鈴が鳴り、イルカを置いてリビングを出た。 ドアの外側から話し声が聞こえる。 嫌な予感がして僅かにドアを開くと、トラブルになりそうな人物がまず視界に入ってきた。 咄嗟に閉めたが、客人の怪力でドアを壊される確率を考慮して、改めてドアを開け直す。 二人の客人のうち、ずぶ濡れの方を浴室へ促した。 このずぶ濡れの人は父の知人で綱手といって、有名な製薬会社の社長をしていて、医師免許も持っている。 実年齢はカカシの母親と同じぐらいの世代だが、外見はかなり若い。 カカシの家が綱手の職場から近いために、こちらの都合も省みずに休憩室代わりに使おうとして、よく顔を出すのだ。 もう一方の客人が、留学先の大学で知り合った後輩のヤマト。 向こうではテンゾウと呼ばれていたので、カカシもそちらの名前で呼ぶ事が多い。 親の都合で小学生の時に渡米し、中学と高校で飛び級をしている優秀な男だ。 その親が勤める会社が綱手の会社だった。 いつの間にか帰国していて、しかも偶然カカシと同じ大学に入って来た。 植物が好きで、人体と樹木の融合を本気で考えている。 「あ、昨日の…」 リビングに来た途端そう漏らしたテンゾウに、カカシも昨日の事を思い出した。 まだ完全には許していない。 酔ったイルカを通路まで運んで来た時の、テンゾウの何気ない一言。 女にだらしなかった頃を知られているので、完全否定が出来ないのがつらい所ではあるが。 良い事を思い付いた。 カカシが嫌がると解っていながら綱手を連れて来た事と、昨日の失態とを合わせてテンゾウに償ってもらおう。 何の説明もないまま、テンゾウに新しいアルバイトを斡旋した。 イルカは少し逡巡していたが納得したようで、店長に連絡したいと言って窓際へ移動した。 しかし電話した相手が恋人疑惑を抱いていたコテツだと解り、瞬時に気持ちが切り替わる。 イルカが泣きそうな顔をしているのを見て、気が気ではなかった。 コテツの奴、会話の内容によってはただじゃおかないからな。 耳を澄ませていると、コテツがイルカを迎えに来ると言い出した。 やっとここまで漕ぎ着けたのに、他の男に連れて行かれるなんて冗談じゃない。 反射的にケータイを奪い、乱暴に断りを入れてから、電話を切ってイルカに返却した。 イルカの目や頬に残る涙の跡に胸が痛み、そっと指で払う。 「もしかしてカカシ先輩…」 やり取りの一部始終を見ていたテンゾウが、ぼそっと呟いた。 ぼんやりしているイルカに、ちゃんと聞こえるように強めの声ではっきりと、カカシから店に連絡する旨を伝える。 イルカが俯き、そこを狙ったかのようにテンゾウがカカシを呼び付けた。 袖を掴まれ、奥のキッチンまで引っ張って行かれる。 「何やってんすか!あんな事して嫌われてもいいんですか!」 戸棚を開け閉めしたり、茶器をいじりながら、それはそれは小さな声で怒鳴られた。 「あの子の事、好きなんですよね?好きな子を怯えさせてどうするんですか!あの子が可哀想で見てられないですよ!」 「え?うみの君、怯えてた…?」 「そんな事にも気付いてなかったんですか!まったく、これだからモテる男は!何でも自分勝手で!先輩もう諦めた方がいいっすよ。絶対に嫌われてますから」 非常に衝撃的な言葉だった。 とにかくイルカに近付きたいという一心で、そこにこんな側面があるなんて考えた事もなかった。 「…どうしよう…泣きそう…」 頭の中が真っ白だった。 足元が覚束なくなり、冷蔵庫に寄り掛かる。 イルカとまだきちんと話した事すらないのに、第三者のテンゾウにさえ、嫌われていると断言される自分とは一体何なのか。 だからってイルカを諦める事はないと断言できる自分も。 これでは前にも後ろにも進めない。 「しょうがないですねぇ…」 テンゾウの声が天啓に聞こえた。 まるで殉教者のような必死さで耳を傾ける。 今はどんな言葉でもありがたかった。 ss top sensei index back next |