イルカは繁華街のバーで、接客兼バーテンダーとしてアルバイトをしている。 まだ半年ぐらいしか経験はないが、時々お客さんの前でシェイカーを振らせてもらえるようになった。 時給も良い方だし、特に問題がなければ大学4年間は続けたい。 アルバイトを始めた頃は店のおしゃれな雰囲気に飲まれてしまって、少しでもお客さんに情けない姿を見られないようにと背伸びばかりしていた。 最近はそういう事もなくなり、やっと自然体で接客出来るようになってきた。 客層としては、男女共に落ち着いた大人な会社員が多く、平日は仕事の後に、週末はデートや食事の後にやって来る。 アルバイトという関わりがなければ、イルカのような身分では決して入れない店である事は確かだ。 今日も平日だというのに、夜の9時を過ぎるとテーブル席は全て埋まった。 イルカがカウンターの中で忙しなく動き回っていると、また新規のお客さんが入店してきた。 男女のカップルのようで、僅かに空きのあったカウンター席へ案内された。 案内した店員が注文を取り、カウンターの中にいたイルカに伝える。 短く返事をして酒を作り始めようとしたら、たった今注文を受けた新規のお客さんの席から店員を呼ぶ声がした。 案内した店員は他のテーブルへ注文を受けに行ってしまったので、イルカがカウンター越しに対応する。 「何かお決まりですか」 伝票とペンを持って、お客さんの前へ移動する。 イルカは注文を聞く時、聞き間違えないようにとお客さんの口元を見る癖があった。 耳は声に、目は口元に集中させて、イルカを呼んだお客さんの注文を待つ。 すると、お客さんの口元が言葉を発する前に、薄暗い店内でもはっきり解るほどいやらしくゆがんだ。 「見つけちゃった」 お客さんの言葉を頭の中で反芻してみたが、店のメニューとは全く繋がりのない単語だった。 店員をからかっているのかと思って、お客さんの顔を見る。 相手の顔を見て、イルカは瞬時に言葉の意味を理解した。 途端に顔をしかめ、事務的な対応に切り替える。 駅の改札で振り切った、しつこいテニス部員だ。 「ご注文は」 カカシの同伴者がイルカの冷たい言い方に気付き、カカシの服の袖を引っ張った。 同伴者の女性は、カカシとイルカが顔見知りだという事は知らないのだろう。 カカシが訳もなく店員を呼び付けて、仕事の邪魔をしているように見えたのかもしれない。 「ごめんなさい、何でもないの」 申し訳なさそうに謝るので、イルカはそれを合図にしてその場を離れた。 同伴者の女性は、カカシと違って、常識をわきまえた大人のようだ。 嫌な気分のまま持ち場に戻り、注文の酒を作る。 店の値段からして、イルカと同世代の学生が客としてやって来る事なんてないだろうと思っていた。 例え来たとしても、店の売り上げに貢献してくれたのだから、一応は次回の来店も促していただろう。 でもそれは、カカシ以外の学生という前提があってこその話だ。 入学早々、あれだけ立て続けに嫌がらせをされた相手にまで、また来て下さいとは口が裂けても言えない。 仕事が最も充実したカウンター内に立てるのは、一日のアルバイトの内の僅かな時間だけど、この日のカウンターだけは自ら辞退して他の人に代わってもらった。 イルカがカウンターから外れてからは何の接触もなくて済み、気が付けばカカシは店を後にしていた。 思い返せば、このあっさりした態度や、カカシが告げた不吉な言葉が、悪い事の起こる前兆だったのだ。 翌日の一番目にやって来た客を見て、卒倒しそうになる。 「こんばんは」 何食わぬ顔をしたカカシに声を掛けられ、ぐっと下唇を噛む。 余程問題がない限りは入店を断る事はなく、また、一人で来店したお客さんはカウンター席に案内すると決まっている。 イルカがどんなに嫌でも、勝手に店の決まりを破る事は出来ない。 「…お席へご案内致します」 店内に流れる音楽と、料理の仕込みをする物音が響く中、一人でも妙に機嫌の良さそうな客をカウンター席へと誘導する。 カカシがが注文したのは、昨日と同じくドルフィンという透き通った水色をしたカクテルだ。 開店してすぐの時間はまだ店員が少ないので、仕方なくイルカがカウンターへ入る。 酒を作り、お通しを盛り付けて、最低限のサービスでカカシの席へ運んだ。 「ねぇ。あなたの事、何て呼んだらいいですか」 コースターにグラスを置いた手をそっと掴まれる。 イルカが逃げられない事を解っているからなのか、校門で引き止められた時とは比べものにならないほど弱い力だった。 「近くにいる店員に声を掛けて下されば、お席に伺いますので」 「そうじゃなくて。名前で呼んでも良いの?イルカって」 まさかカカシがイルカの名前を知っているとは思わなくて、驚きと戸惑いで声が出ない。 そんなイルカの様子を見て、カカシが苦笑して手を放した。 「えーっと…。念の為に確認しますが、オレの名前は知ってます?カカシっていうんだけど」 イルカが恐る恐る頷くと、またカカシが苦笑した。 カカシの笑い方に嫌味がなかったので、イルカも社交辞令で愛想笑いを返し、仕込みの続きをするために席を離れる。 それから間もなく、カカシの席からページをめくる音が聞こえてきた。 手ぶらで来店したように見えたけど、本を持っていたようだ。 ちょびちょび酒を飲みながら読書するお客さんは接客が楽で良い。 わざわざ神経をすり減らして会話をする必要がなくて。 時折カカシの視線を感じたが、客席が埋まってくるとそんな事には構っていられなくなった。 忙しさが一段落して、終電の時間を気にし始めるお客さんが増える頃、店も閉店に向けて準備を始める。 その中で、誰か連れを呼ぶ訳でもなく、まだカカシはカウンター席に居座っていた。 グラスが空になれば新しいドリンクをオーダーしているようなので、営業妨害にはならないけれど。 相変わらず、黙々と文庫本を読み続けている。 平日という事もあり、日付が変わった時点で残ったお客さんはカカシ一人だった。 ドリンクのオーダーストップが掛かり、イルカは看板の照明を消しに外へ出る。 店に戻り雑務に取り掛かろうとすると、カカシが店長と何かを話している姿を見かけた。 店長と客の会話にしては、二人とも表情が堅い。 イルカには関係ない事だと思って、カカシの前にある空のグラスを下げようと手を伸ばす。 「向こうではバーテンの経験があるんです」 「でも、うちは人手が足りてるから」 グラスの横には、店長とカカシに挟まれる形で一枚の紙が置かれていた。 詳しい内容までは解らないが、イルカはすぐにその紙が履歴書なのだと気が付いた。 「ボストンにいたのなら語学は堪能なんだろう?だったら、それを活かせる他の店を紹介するよ」 「どうしてもこの店で働きたいんです」 会話と手元の履歴書から、大体は何の話をしているのか見当が付く。 店長はしきりに雇えないと主張していて、それでもしばらく話し合いは続いた。 カカシと同じ店で働く事を想像して、冷や汗が出てくる。 イルカにはどうする事も出来ないけれど、店長の方針が一貫して変わらない事だけが救いだった。 他の店員達も話の内容に気付き、カカシが客とは少し違う立場の人間だと知ると、遠慮なく掃除や雑談を始めた。 イルカも時給で働いている以上、ただ立ち聞きしているだけでは心苦しくて、閉店準備に参加する。 テーブル席の片付けで店中を動き回り、ふと顔を上げると、カカシが店を出て行く所だった。 ドアがしっかり閉じた事を確認して、店長を振り返る。 既に他の店員が店長を掴まえて、カカシの件を尋ねていた。 イルカも気になる事だったので、手を動かしながら聞き耳を立てる。 しかし、聞き耳を立てるまでもなく、店長は周りの店員に聞こえる音量ではっきりと『断ったよ』と言った。 ほっと胸を撫で下ろす。 残りの仕込みを手伝い、同じ方向に帰る店員と共にタイムカードを切って店を出た。 電車が走っていない時間でもイルカが帰宅出来るのは、この店員がバイク通勤をしているからだ。 後ろに乗せてもらうから交通費が浮くし、遅くまで働く事が出来る。 試験前や就職活動の時は働けなくなるので、働ける時にしっかり稼がないといけない。 明日もイルカは開店前から閉店まで、みっちり仕事が入っている。 この生活に慣れるまでは、朝起きるのが大変だった。 もう習慣になっているので、起きる時間に起きてきちんと大学へ行って、講義を受けてから出勤するという1日の流れが出来上がっている。 次の日、開店早々店先に現れた客の気配にイルカが慌てて接客に向かうと、そこには昨日の一番目の客と全く同じ人物が待ち受けていた。 言葉を失って立ち尽くす。 「こんばんは」 十数時間前にあれだけはっきりと採用を断られたカカシが、曇りのない顔で嬉しそうに笑っている。 この日もカカシは、閉店間際までカウンターに座って文庫本を読んでいた。 昨日の出来事がイルカの頭の中に蘇る。 案の定、カカシは他のお客さんがいなくなった所を見計らって、熱心に店長と話し合っていた。 店長は今回も断ったようだけど、翌日もカカシは店にやって来て同じ事を繰り返した。 そして、とうとう5回目の訪問で、店長はカカシを店で働かせる事に決めてしまった。 ss top sensei index back next |